体験談 2025.12.08
体験談vol.14 武井三津江さんの長女さん<続編1>

・患者さんの病名:直腸がん
・患者さんの年齢:87歳
・闘病期間:発症から逝去まで2年
・訪問診療を受けた期間:1年10ヶ月
・家族構成:長女さん、お孫さん(大学生)と3人暮らし。お孫さん(声楽家)が近隣在住
・インタビューに答えてくださる方:長女さん(60代、パート職)
・インタビューの時期:逝去から1ヶ月半後

87歳の年の初旬、前回のインタビューの2ヶ月くらい前から三津江さんの体調に変化が現れてきていました。食事量が減り、口数も減り、うとうとして過ごす時間が増えていました。3月からは著明な下腿浮腫が出現し、原因として肝不全と、腫瘍による下大静脈の圧排が考えられました。アルブミン製剤や利尿剤は一時的な効果はあり、浮腫は治ったり悪化したりを繰り返しました。
6月から黄疸が見られ、それとともに傾眠や食欲不振がさらに進行しましたが、幸い持続的な痛みや掻痒感、嘔気は出現しませんでした。7月後半から腫瘍熱と思われる微熱が続きました。8月上旬から自分でご飯を食べることが難しくなりましたが、スプーンで口に運んであげるとなんとか飲み込めました。それがうまくいったのも束の間で、数日後にはむせたり、飲み込めずに口の中に溜め込んでしまったりすることが増えていきました。8月5日頃から身の置きどころがなく、夜間に頻回に寝返りを打って眠れていない様子でしたので、8月7日から連日夕方にハロペリドールという定型抗精神病薬を皮下注射したところ、夜間穏やかに眠って過ごすことができました。
8月9日にストマ(人工肛門)からの出血が始まり、排ガスも急激に増えました。止血は困難で、様子を見るしかない状況でしたが、幸い、8月11日以降は出血量が減りました。調子の良い時と悪い時で波がありましたが、8月12日の朝まではなんとかストローで水分を摂取し、長女さんがヨーグルトなどを口元に運ぶと、口を開けてくれました。
8月13日早朝から努力呼吸となり、徐々に呼吸が弱くなりました。上のお孫さんも駆けつけてくれて、長女さんとお孫さん2人に囲まれてからは、眉間の皺もなくなり、穏やかに家族の時間を過ごしました。もう尿も出なくなっていたので、体についた嫌なものは取り除いてあげようと膀胱留置カテーテルは抜き、着心地の良いパジャマに着替えました。その日の夕方に眠るようにご逝去されました。
長女さんは、訪問診療が始まった当初は、「最期は施設か入院かな」とおっしゃっていましたが、亡くなる年の春には三津江さんの変化を目の当たりにして、在宅看取りを少しずつ意識し始め、三津江さんの状態の変化が加速し出したのがちょうど職場の夏休み期間だったこともあり、「こんな状態でどこか目の届かないところへ預けるのは心配」と、ご自宅での看取りを覚悟されました。
覚悟を決めたとは言っても、長女さんは、三津江さんが亡くなる直前まで「点滴したら良くなりますか?」と、なんとかしたいという思いでいっぱいで、呼吸が止まった後も「胸を押したら息をした!生き返りますか?」とおっしゃっていて、三津江さんが亡くなることを受け止めきれない様子もありました。しかし、お孫さんの支えもあり、当院が死亡診断にお伺いする頃には落ち着きを取り戻していました。三津江さんはがんだけでなく、認知症もあり、6年以上におよぶ介護生活は大変だったと思いますが、長女さんはお母様のためにずっと懸命に尽くされていました。
三津江さんのご逝去から1ヶ月半後の秋の気配を感じる夏の終わりに、長女さんに在宅での介護と看取りと、いまのお気持ちについて語っていただきました。
目次
最近はどんなふうに過ごされていますか?
今は介護の心配がなくなったので、時間を気にせず出歩いています。習い事をしたり、娘のコンサートに行ったり、デパートにお買い物に行ったりしています。エステにも通って3kgくらい痩せました。自分の生活を楽しく過ごしています。
20年前に父が亡くなった時は、悲しくて悲しくてしょうがなかったのですが、母が亡くなった時には、なぜか全然悲しくなくて。理由は自分でもよくわからないのですが、心の準備ができていたからかもしれません。余命を伝えられて覚悟ができていて、香西先生の言う通りに母の状態が変化していって、お家で苦痛もなく、自然な形で母を見送れたから、父の時とは違う感覚なのかもしれません。

三津江さんの認知症はがんの病状経過にどんなふうに影響していましたか?
認知症を発症してからの数年はどんどんできないことが増えていき、母自身も私たちも何が起きているのかわからず、てんやわんやでした。認知症なんだと気づき、診断されて薬での治療を始めたりデイサービスに行き始めたりしてからは少し落ち着きましたが、それでも少しずつ進行していく状態に試行錯誤しながら対応していった感じですね。
がんの手術を受けた後もひどいせん妄になったり、ストマ(人工肛門)のパウチや膀胱留置カテーテルを自分で取ってしまったりして、本当に大変でした。
でも、今になって「認知症ってありがたいな、母が認知症でよかったな」と思います。母は認知症で感覚が鈍感になっていたから、注射を打ってもあまり痛がらなかったり、薬をたくさん飲んでいてもしんどいという感覚はなく、飲んだことを忘れてくれたりしました。あんなに肝臓が悪くなって、黄疸も出て、普通だったら痛かったり、怠かったりするんでしょうが、直前まできょとんとした顔をしていたのは認知症のおかげだと思います。あんなに苦労させられた認知症に、最後は助けられましたね。

三津江さんが亡くなる1週間前から前日はどんなふうに過ごしていましたか?
母は亡くなる1週間前くらいまではデイサービスに行っていました。とはいえ、デイサービスに行けるくらい元気だったというわけではなく、デイサービスの方々が融通を利かせてくれて、母が動けなくて準備ができていなかったらお迎えの順番を遅らせてくれたり、体調が悪ければデイサービスでもベッドに寝かせてくれたり、熱が出て具合が悪くなってきたら早退させてくれたりと、いろんな手厚い配慮をしていただいたおかげです。
母は同じデイサービスに5年くらい通っていたので、スタッフの方々も利用者さんも顔見知りでした。認知症なので他の人のことは覚えられないけど、他の人は母のことを覚えているので、よく声をかけてくれていたみたいです。デイサービスのノートを見ると「隣の人に声をかけられて笑っていました」とか書いてありました。色々細かく書いてくれて母がどんなふうに過ごしているのかよくわかりました。母の状態がどんどん変わっていっても、デイサービスの方々がどんと構えて「大丈夫です!」と受け入れてくださったのが本当に嬉しかったです。
また、ケアマネジャーさんは母がベッドから落ちるようになったら介護ベッドをあっという間に手配してくれました。香西先生からも看護師さんからも前々から再三勧められていたのに、本当にギリギリまで普通のベッドで大丈夫です、と私は言っていました。なんだか介護ベッドを使うことが甘えのようにも感じたし、そういう段階になってしまうということが怖かったんだと思います。また、もともとあったベッドを動かすのを面倒にも感じていました。結果として、介護ベッドの導入は亡くなる1週間前くらいでしたが、あんな便利なものがあるなら、もっと早く使っておけばよかったと思いました。介護ベッドだと、高さを変えられるので、高くしたら立ち上がりやすいし、寝る時は低くすればベッドから落ちることを防げました。柵を掴んで立ち上がったり、柵で転落を防止したりすることもできました。これから在宅療養をされるみなさんも、早く介護ベッドを導入した方が本人のためにも家族のためにも良いと思います。
母は認知症の影響でだんだん口数が少なくなっていました。それでも、寝言なら流暢に喋れるのが不思議でした。最後の方は声が出せなくなり、何かあると柵をトントン叩いていました。どうしたのかなと様子を伺うと、不服そうな顔であっちを向いたり、こっちを向いたりしていたので、身の置き所がない、だるい感じがあったのだと思います。少しでも母が楽に過ごせるよう、部屋を涼しくしたり、掛け物や衣類を調節したりして見守りました。色々な症状はあったのでしょうが、苦しさは最小限にできたと思います。
亡くなる前日の朝もリビングでご飯を食べたんです。食べたっていう程の量ではないですが、みんなが食べているのを見ていたら欲しくなったのか、自ら座ると言って車椅子に乗って、食べるか聞いたら頷くから、ヨーグルトをスプーンで口に運びました。それまでも、食べられる日と食べられない日があり、亡くなる数日前からは食べられなくなると何かで読んだことがあり、また復活するのかなと思っていたので、その翌日に急に亡くなるとは思ってもいませんでした。でも、2ヶ月くらい前からおしっこの色が変わってきて、最後はコーヒーのような色になり、すごく少なくなっていって、ストマからの便も黒くなって、小さな変化の積み重ねはありました。そういうのは見ていてつらかったですが、母自身は認知症だったおかげで、自分では気づかないし、痛みもなく普通に過ごせたことがありがたかったです。亡くなる前日の写真があるんですけど、ベッドで横になって、足を組んでテレビを観ているんですよ。すごいですよね。

三津江さんが亡くなった日はどんなご様子でしたか?長女さんはどう感じましたか?
亡くなる当日の朝、母はいつもよりもぞもぞと動いていて、落ち着きがない様子だったため、朝6時に看護師さんに緊急訪問してもらいました。血圧は60mmHg台に下がっていました。看護師さんから香西先生に電話してもらい、「気持ちを落ち着かせる薬を使ったら血圧にも影響するかもしれないけれど、三津江さんの苦痛を取ることを優先しましょう」と説明を受けて、看護師さんに注射を打ってもらいました。そのあと少しうとうとしましたが、1時間後にはまたそわそわして荒い呼吸になりました。香西先生に来てもらって、先生から「努力呼吸から下顎呼吸になりかけているところで、余命は数時間の可能性が高いから、すぐに家族を集めたほうがいい」と言われました。すぐに私の長女(三津江さんの孫)に連絡をしました。孫はまだ眠っていたのですが、急いで来させました。
在宅での看取りは初めてだったので、本当に何もわからなかったのですが、香西先生に「119番しなくていいですからね」とか、「トイレに行っている間に呼吸が止まってしまうこともあるけど、じっと見張っていなくていい。それよりもみんながあまり緊張せず普通に過ごしてくれたほうが、三津江さんも安心するから」と言われて、私も少し落ち着きました。
最期は私も私の娘2人も同じ部屋にいたのですが、たまたま3人ともが目を離した瞬間に、母は息を引き取ったんです。次女が、「あれ、息してないんじゃない?」って言って見たら止まっていて。私は動揺して、香西先生に電話して「心臓マッサージしたら生き返りますかね?」と聞いたらそれは難しいと言われて、ああそうかと思うくらい、それくらい動揺していたし、それもわからないくらい素人なんです。でも、香西先生が到着する頃には私もちょっと冷静さを取り戻しました。香西先生から「眉間に皺もないし、とっても綺麗ないいお顔です」と言われて、そうか、苦しくなく穏やかに逝ったんだな、それは良かったと思いました。

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月