MENU

体験談 2025.11.26

体験談vol.26 本田千佐子さんの長女さん<後編>

体験談vol.27 本田千佐子さんの長女さん<後編>

・患者さんの病名:乳がん
・患者さんの年齢:88歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで22年
・訪問診療を受けた期間:4ヶ月
・家族構成:独居だが、最期の2ヶ月は有料老人ホームに入所。都内に長女さんが在住。
・インタビューに答えてくださる方:長女さん(50代)
・インタビューの時期:逝去から約7ヶ月後

脳挫傷の後、退院されてからはどのように過ごしていたのですか?

母は退院後もひとり暮らしを続けていて、冷蔵庫の食材を使って自分で料理を作ることができましたが、ひとりでの外出は難しく、リハビリも兼ねてデイサービスに行っていました。通院の時は私が有休をとって付き添うようにしました。

それまでは乳がんの経過は比較的良かったのですが、その1年後くらいから受診のたびに採血で肝臓の数値が上がってきていると指摘され、受診の頻度が多くなっていきました。85歳の時に肝臓に転移していることがわかり、余命は2年くらいと伝えられました。母は脳挫傷の後だったので、医師から説明を受けてもわかっていなかったのか、わかっていてとぼけていたのかはわかりませんが、他人事のようでした。私はとてもショックでしたが、母は自覚症状がなく元気だったので、一緒に旅行にいったり、晩酌をしたりして過ごしていました。

20年以上闘病されていましたが、どんな先生に巡り会えましたか?

母を執刀してくれた先生はもういなくて、その後何人かの先生にお世話になった後、訪問診療に切り替える直前まで数年診ていただいていたのが、外科のI先生です。

診察の時にI先生に、日本橋でお店をしていますと伝えたら、ふらっとお店に来てくれました。I先生が来た時、母は気づかずにカウンター越しに「ようこそいらっしゃいませ。お近くの会社ですか?」と聞いちゃったんです。I先生は知らぬ顔で「近くではないんですけれど、有明の方で」などと答えて。しばらくしてから母が気づいて「もしかして、I先生ですか?」と聞いて、スタッフも先生も大笑いでした。I先生は外勤先からの帰宅時に日本橋の辺りを通るそうで、それからちょくちょく立ち寄ってくださいました。おひとりで来てくださることも、職場の方を連れてきてくださることもありました。母が脳挫傷で入院した後も、私がお店に立っている時に来てくださり、親しくさせていただいていました。

顎に手を置く女性

訪問診療に切り替えることになった経緯を教えてください。

がんが進行して肝転移が見つかり、薬剤を変更してもどんどん大きくなってきて、87歳の年の初めくらいからI先生に「うちに来ないで、緩和ケアに切り替えることを考えた方がいい」と言われるようになりました。初めは私は「先生そんな冷たいこと言わないで。ずっと先生に診てもらいたいんです」と言っていたのですが、受診するたびにそう言われ、半年くらいかけて説得されました。その間に病院のソーシャルワーカーのTさんに相談させていただいて、母の住まいから近くの訪問診療のクリニックを探していただきました。ケアマネジャーさんも一緒に探してくださいました。別のクリニックを提案されて、よくわからないままそこにお願いする流れになっていましたが、なんとなくしっくりこないような気もしていました。その時Tさんにここもありますよと見せていただいたのが、むすび在宅クリニックのパンフレットでした。香西先生のお写真を見て「ここだ!」と思い、香西先生の経歴を拝見したときに、母が脳挫傷で通院している病院にもいらしたことを知ってご縁を感じて、絶対香西先生にお願いしようと決めました。

笑顔の女性医師

有料老人ホームでの生活はどうでしたか?

母はひとり暮らしで、私の家は母を呼べるほどの広さはなかったので、当初からデイサービスに通えなくなったら有料老人ホームに入ってもらおうと考えていました。母が住んでいたのはアパートの2階で、外階段を上り下り出来ないと部屋に入れなかったので、それができるかどうかが分かれ目でした。87歳の年の年末には送迎の際に階段の上り下りを手伝ってもらっていましたが、それでも難しい状況になってきていて、認知症も進んで、デイサービスのない日に家の前で待っていたり、ヘルパーさんや看護師さんが勧めても食事を取らなくなったりしてきていたので、そろそろそういう時期なのだなと覚悟していました。2月の母の誕生日までは家で、と考えていましたが、そうも言っていられないくらい目を離すことが危うくなってきたので、88歳の誕生日の1ヶ月くらい前に有料老人ホームに入所を決めました。

がんの末期だったので、看護師さんが24時間対応してくれる有料老人ホームに入所しました。私の家から近くてお見舞いに行きやすく、入所後も香西先生からの訪問診療を継続できるところも決め手でした。
ホームのスタッフの方々は看護師さんも介護士さんも皆さん明るくて良い方ばかりで、スタッフの数も多くて、母に呼ばれた時以外でもたくさん母のもとへ行ってくださいました。母のことを大事にしてくださいました。執刀医の先生も、外科のI先生も、香西先生もそうですが、母に携わってくださった全ての方々がいい人ばかりで、私の運も全て母で使い果たしてしまったと思っていました。

何歳になっても一緒に食事をする時は呑むというのが母との約束でしたので、有料老人ホームの契約の際には飲酒ができるか聞いて、主治医の許可があればとのことでしたので、入居とともに真っ先に先生の許可を取って、母の部屋の小さい冷蔵庫いっぱいにビールを入れました。
最期の方は母はもう呑めませんでしたが、私が代わりにガンガン呑みました。看護師さんに「お嬢さん、呑んでますね」と言われて、人様には迷惑をかけませんというような内容で一筆書かされました。悲しみに耐えられなくてお酒に逃げているんじゃないかと心配もされましたが、そうではなくて、もうあと少ししか母と一緒にお酒を吞める期間はないことがわかっていたから、全力でその期間を楽しみたかったんです。
母の誕生日には、シャンパンを持ってきて母の部屋でひとりで酒盛りをしました。母と一緒に野球のテレビ中継を観ながら「打ったわよ〜!」「いけ〜!」と声を張り上げて応援しました。

笑顔の女性

千佐子さんの最期はどんなご様子でしたか?

最期は少し熱が出ましたが、思っていたよりも苦しまなくてよかったです。亡くなる前の数日ずっと目を開けて窓の方を見ていたので、母の視線の向く方に椅子を置いて、母の視線が合う位置に座っていました。昔よく母とふたりで〝炭坑節″を歌って踊っていたので、病室で私が歌って踊りました。その時に何度か目が合った気がしました。「もう目を瞑って寝てもいいんだよ」と言っても、ずっと目を開けていました。

母に対して止めどなく言葉が溢れてきました。女手ひとつで育ててくれたことや、82歳までずっと深夜まで働かせてしまったこと、私が一緒にいたがるからいつも一緒にいてくれたこと。ありがとうもごめんねもたくさん伝えました。最期まで耳は聞こえているから、きっと泣くよと友人知人から聞いていたのですが、母は涙一滴も流しませんでした。それから、すごく恩を着せて、「娘で良かったでしょ。これが息子だったら、こんなにそばにいてくれなかったかもしれないよ。しかも、嫁に行かない娘がいてあなた幸せよ」とも伝えました。これは以前から言っていて、母に無理やりうんうんと言わせていました(笑)

私は母が乳がんになる前、元気な時から母の死を一番恐れていました。母が死んだら気が狂ってしまうかもとか、後追いで自殺してしまうかもと真剣に思うくらい、母のことが大好きでした。母が亡くなることを想像しすぎていたせいか、最期は思いの外、冷静でした。ビールを飲みながら母の呼吸の音を聞いていました。最期は、はっと小さく息を吐いて、しばらく呼吸が止まって、また再開してということを2、3回繰り返し、すーっと呼吸が止まりました。その瞬間をずっと恐れていたはずでしたが、それを乗り越えた後は、怖いものが何もなくなりました。今後何があっても、母の死以上のものはないと思えたから、自分が強くなったように感じます。

葬儀社の方に、「美人ですね」と母を褒めていただき、亡くなった後は顔色がよく見えるよう化粧をして、ネイルもして、明るいピンク色の服を着せました。あの世でも自慢の綺麗な母でいて欲しいなと思いました。

涙目で口元を抑える女性看護師

千佐子さんがいなくなったらどうしようという不安はいつからあったんですか?

母が乳がんになる前から、漠然とありました。母だけでなく、自分が大切にしている存在を失うことへの恐れというものが、物心ついた時からずっとあって、子どもの頃には祖母や当時飼っていた犬が亡くなったらどうしようと思っていました。

私の不安がピークに達したのは、母が階段から落ちて病院に運ばれた時です。あと、肝臓に転移が見つかった時も同じくらい絶望を味わいました。でも、それからの数年の間にゆっくり変わっていく母とともに過ごしながら、死は平等に全ての人に訪れるのだと、諦めとも納得とも違うのですが、私の中で気持ちの変化がありました。20年以上も母とともにがんの闘病を続けてくる中で私も少しずつ覚悟ができてきたのかしれません。お酒で現実逃避していた時もありますけど。
日本人の女性の平均寿命が87歳だから、その年までは生きさせることが子どもである私の義務だと思っていました。88歳まで生きられて、きっと母は幸せな人生だったと思ってくれているんじゃないかなと思います。伝えたら心配するだろうと思って、母には私の不安を伝えたことは一度もありません。それ以外の気持ちは全部包み隠さず、伝えてきました。

千佐子さんが亡くなった後、どんなふうに過ごされていますか?

以前からいつか転職したいとは思っていたのですが、この数年は転職も考えられないくらい母のことで頭がいっぱいでした。いまやっと落ち着いて自分のことを考えることができるようになりました。母の死後に転職活動を開始しましたが、落ちたってなんてことない!という意気込みで面接を受けたら受かったんです。私の運は母のために使い果たしたと思っていましたが、まだ運が残っているんだなと思いました。母もきっと見守ってくれていて、背中を押してくれたんだろうなとも思います。私はいま50代ですが、全く新しい業界で第二の人生のスタートを切らせてもらえることが嬉しくて、やる気に満ちています。

母の遺骨はまだ納骨しておらず、私の家のリビングテーブルの上に置いています。遺骨と一緒に置いてある母の写真を見て、「行ってきます」とか「今日も暑いよ」と毎日話しかけています。同じ写真のはずなのに、心配そうな顔だったり、笑顔になったりしているように見えて不思議です。母と娘にしかわからない何かがあるんだと思います。
母は寂しがり屋だったみたいで、ホームに入ってからも施設の職員から「お母さん、ひとりにしないでってよく言っていますよ」と聞いていました。今は母の遺骨と祖母の位牌を一緒に置いてあるので、私が留守の間もひとりじゃないからねと言っています。母はこれからもずっと私のそばにいてくれると思います。

私は携帯を2台持っていて、どちらも母を待ち受けにしています。コード決済をしようとした時に母の顔を大写しにした写真が表示されるので、相手にギョッとされて、ちょっと恥ずかしいんですけどね。どんだけマザコンなんだと思われちゃいますよね(笑)

少し時間が経って、葬儀などやることもひとしきり落ち着いたら、寂しさが込み上げて来るかと思っていましたが、それも大丈夫でした。まだ、母が生きているかのように感じて、全然寂しさはないんです。不思議ですよね。

私が最後の晩餐で食べたいものは、母が握ったおにぎりです。他のどんな高級な食べ物より、母のおにぎり以上に美味しいものはありません。とても叶わない望みではありますが。最後に母が握ってくれたおにぎりは、以前より握力も弱くなり「もっとしっかり握ってよ!」と文句を言った記憶があります。また食べたいなぁと思います。

スマホの待受画面

後悔していることはありますか?

私は甲斐性がないから、母のお店を継いであげることもできなかったし、結婚もせず、孫の顔を見せてあげられなかったし、高級なタワマンに住まわせてあげることもできなかったし、毎年海外旅行に連れて行ってあげることもできませんでした。
でも、母が倒れてからの数年はやれることは全てやってあげられたと思っています。だから、悔いはありません。母を失った悲しみはありますが、それでも、やり遂げたという思いの方が強いです。私が仕事に行っている間に旅立ってしまったらと仕事中も気が気でなかったのですが、最期も母の手を握って、歌を歌って看取れて、これ以上の看取りはできなかっただろうなと思います。

生まれ変わっても千佐子さんの娘になりたいですか?

どうでしょうね(笑)今度は、千佐子さんの母になりたいです。でも、だいぶ過保護になるかもしれないです。一緒に晩酌できる子に育てちゃいますね(笑)

親子の旅行の写真

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月

トップ/スペシャルコンテンツ/体験談/体験談vol.26 本田千佐子さんの長女さん<後編>