体験談 2025.11.26
体験談vol.26 本田千佐子さんの長女さん<前編>

・患者さんの病名:乳がん
・患者さんの年齢:88歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで22年
・訪問診療を受けた期間:4ヶ月
・家族構成:独居だが、最期の2ヶ月は有料老人ホームに入所。都内に長女さんが在住。
・インタビューに答えてくださる方:長女さん(50代)
・インタビューの時期:逝去から約7ヶ月後

本田千佐子さんはバブル全盛期に銀座を盛り上げていたクラブのママのひとりです。バブル崩壊後は日本橋に移り、ショットバーを営んでいました。聞き上手で優しい笑顔の千佐子さんにはファンが多く、銀座時代から何十年もの付き合いの常連さんもたくさんいたそうです。
66歳の時に胸にしこりがあることに気づき、精査の結果乳がんと診断されました。乳房切除と腋窩リンパ節郭清を受け、術後化学療法を受けた後、5年間ホルモン療法を行われました。その後経過観察中に縦隔リンパ節転移が疑われ、手術から15年後にホルモン療法を再開しました。しかし、再開後も年単位で少しずつ新たな転移が見つかり、ホルモン剤の種類を変えながら治療を続けました。乳がんの治療をしながら、日本橋のお店には毎日顔を出していました。
82歳の年の12月に自宅アパートの外階段から転落して脳挫傷をきたし、病院に5ヶ月入院しました。麻痺などの後遺症はありませんでしたが、高次脳機能と呼ばれる、順序立てて考えたり、複数の物事に同時に注意を配ったり、連想したりする能力の全般的な低下がみられ、今まで通りの生活はできなくなりました。受傷の前日まで続けていたお店は娘さんに任せることになりました。日常生活にも手助けが必要になり、ヘルパーさんに家事を手伝ってもらったり、デイサービスに行ったりしながら、ひとり暮らしを続けました。
85歳の時に肝転移が見つかり、ホルモン剤の種類を変えても次第に大きくなって行きました。87歳の8月に急に右季肋部痛が出現しました。肝臓自体は痛みを感じない臓器なのですが、肝臓を包んでいる被膜には痛覚があり、そこにがんが浸潤したり、肝臓が腫れて被膜が伸びたりしたことが痛みの原因と考えられました。医療用麻薬を頓服で開始しましたが、高次脳機能障害の影響もあり、千佐子さんは自発的に薬を飲むことが難しく、なかなか痛みが取れませんでした。
4種類目のホルモン剤を継続していましたが、10月の画像検査でも肝転移が増大しており、全身状態を考慮して、抗がん治療を終了することに決まりました。通院も負担になっていたため、11月13日より当院からの訪問診療を開始しました。
初診の時点で2003年の乳がん手術後からずっと続く右胸、右上肢の痺れるような痛みを訴えており、痛みのために眠りが妨げられたり、動作が億劫になったりすることもあるとお聞きしました。医療用麻薬の頓服薬は、3日に1回程度しか内服されていませんでしたが、痛くても頓服薬を飲むということを思い付かず、我慢されているのではないかと、その点が気がかりでした。認知機能の低下もあり、医療用麻薬でどれほどの効果が出ているかはっきりとはわかりませんでした。そこで、長女さんやデイサービス職員と相談の上、11月14日から医療用麻薬の定時内服に切り替えました。その後、痛みの訴えが減り、表情も和らいだため効果があると判断しました。
徐々に認知機能と身体機能が低下して頻回に転倒するようになり、外階段の昇降が困難になったため、88歳になる少し前、訪問診療を開始した翌年の1月13日に有料老人ホームに入所しました。その後は施設職員の見守りがあるため、転倒することはなくなりましたが、ベッドに臥床して過ごす時間が増えました。もともと食べ物の好き嫌いが多く、食欲もかなり低下してきており、施設の食事はほぼ手付かずでしたが、長女さんが持ってきてくれたカツサンドやお刺身などは、少し口にできるようでした。長女さんは千佐子さんが施設に入所してからも忙しい仕事の合間を縫って泊まり込んだり、連日訪問したりしていました。
2月上旬から右季肋部や右上肢の痛みが強くなり、医療用麻薬を漸増しました。2月中旬から飲水でむせる時も増え、内服薬を貼付剤に変更しました。その後はうとうとして過ごすようになりましたが、呼びかけると目を開けて優しい笑顔を見せてくれました。3月19日から昏睡状態となり、飲水も全くできなくなりました。3月22日に長女さんの見守る中、眠るようにご逝去されました。
千佐子さんのご逝去から7ヶ月後の秋の深まりを感じる晴れた日に、長女さんに千佐子さんへの想いについて語っていただきました。

目次
千佐子さんはどんな方でしたか?
母は大分県の湯布院の出身で、高校を卒業して18歳で上京しました。最初は銀座の喫茶店で働き、スカウトされて銀座の一流クラブにホステスとして入店しました。そこで作家の井上靖さんと出会い、すごく可愛がってもらったそうです。これは母がまだ20代頃の写真で、隣に写っているのが井上靖さんです。母はすごい強運の持ち主だったこともあり、30代後半で銀座に自分のクラブを構えました。母のクラブには松本清張さんや遠藤周作さんら、文豪が集っていたそうです。バブル全盛期には日本橋やホテルニューオータニにもカフェを出店して、多店舗経営していました。
母が50代前半の頃、週刊誌の「銀座のママ特集」に載りました。母はそういうのが苦手でずっと断り続けていたのですが、ついに断りきれなくなったのか、嫌々出たそうです。派手なママの写真が並ぶ中、うちの母は学校の先生のような真面目で控えめな写真でした。銀座のお店は15年くらい続けて、1990年頃バブルの終わりとともに幕を閉じました。その後は日本橋に移り、脳挫傷で倒れるまでショットバーのママをしていました。
私は母が33歳の時の子で、母がずっと働き詰めだったので、私は祖父母と暮らしていて、祖母が母代わりでした。
母は滅多に怒らない人でしたが、その母が一度ひどく怒ったのを覚えています。私が若い頃、当時付き合っていた彼氏を家に連れて行ったのですが、その時私と彼との関係がうまくいっていなかったのもあり、彼が母に私の悪口を言い始めたんです。母は真剣に怒って、「うちの娘をそんな風に育てた覚えはありません!」と言い、彼を追い返してしまいました。後で私も「あんな男と付き合うんじゃない。男を見る目がなさすぎる」と叱られました。それ以外は、母が怒ったのを見た記憶はほとんどありません。

千佐子さんとの思い出について教えてください。
今の時代では絶対ダメですが、母がそういう職業ということもあり、私は人より少し若い年頃からビールを呑んでいました。母と札幌に行ってビアガーデンで生ビールのジョッキが出てきて、母に「ちょっと呑んでみなさいよ」と言われて口をつけたら、世の中にこんな美味しいものがあるのかと感動しちゃって。それからは毎日晩酌をするようになりました。母がお店に出勤する前に夜ご飯を一緒に食べていたのですが、母が「ちょっと付き合いなさいよ」と酒を勧めてきて、一緒に呑む時間がとても幸せでした。
母は歳を取るにつれてお酒が弱くなり、私はますます強くなって、立場が逆転していきました。晩年は私から「ちょっと呑もうよ」と誘うようになりました。何歳になっても一緒に食事をする時は酒を呑むというのが母との約束でした。ふたりでお酒を飲んでいる時は、テレビを観て、他愛もない話をしていました。
小さい頃からお母さんと呼んだことはなくて、「千佐子さん」と呼んでいました。歳を重ねて甘いものが以前より好きになってぷくぷくしてきたので、70代くらいの時に「ぷくちゃんって呼ぶね」と言ったら頷いてくれたので、それからは「ぷくちゃん」と呼んでいました。昔から友達みたいな親子関係でしたね。
乳がんが見つかった時のことを教えて下さい。
母が66歳の時でした。ゴールデンウィークに一緒に過ごしていた時に「あなた、ちょっとここ触って。痛くも痒くもないんだけどね」と言われ、母の胸を触ったら、ゴルフボールくらいの硬いものがありました。連休明けに近くの病院を受診したところ、すぐにがん拠点病院を紹介されました。乳がんと診断された時、母はショックだったと思いますが、もともと自分の感情をあまり表出しない人なので、何も言いませんでした。私は母が亡くなってしまったらどうしようと不安でした。すぐに手術が決まり、執刀医は後に上皇后美智子さまの乳がんを手術した先生でした。手術は成功し、母も私もほっと一息つきました。術後は抗がん剤治療を受けながら、かつらをつけて仕事をし、その後のホルモン療法の期間も基本的に1人で通院していました。
闘病中も82歳までずっと、バーのママを続けていました。日本橋に母の店があり、昼間は人に任せてカフェ営業をして、夜は母がカウンターに立ち、ショットバーを営んでいました。母は営業日は毎日17時くらいに家を出て日本橋まで自分で車を運転して向かい、深夜1時まで働いて、お店を閉めてからまた運転して帰っていました。80代になってもそれを続けていたので、私は事故に遭ったらと心配で、1日に何度も安否確認の連絡をしていました。

千佐子さんの介護が始まったのはいつ頃ですか?
大きく状況が変わったのは、82歳の年の12月です。当時流行っていた大河ドラマの最終回を母の家で2人で観たのをよく覚えています。観ている間に私の熱がぐんぐん上がって、翌日は会社を休んで母の家で寝ていました。日中に近くの病院を受診したらインフルエンザと診断され、すぐに自分の家に帰りました。母はその時点では熱もなく、念のために受けた検査も陰性で、夕方からはいつものように仕事に行っていました。
その次の日に母に電話をしたら、「大丈夫よ。ただ、ちょっと頭が痛いかな」と言っていました。私は家で寝ていたのですが、そのやりとりから1時間後に見知らぬ番号から電話がかかってきて、出てみたら母の大家さんでした。「お母さんが階段から落ちて、頭を打って救急車で運ばれていますから、搬送先の病院に向かってください」と言われ、飛び起きて病院に駆けつけました。搬送先の病院は年の瀬で混んでいて2時間待ち、結局脳外科がないので診察できないと言われて、脳外科のある病院に搬送されました。その病院で、脳挫傷と診断され、母もインフルエンザに罹っていることも判明しました。その時母は訳のわからないことを言っていて、そんな母を見るのは初めての経験で、母は気が狂ってしまったんだと思いました。後になって、あれはせん妄だったのだと知りました。
そんな状態の母を病院にひとりにするのはとても心配でしたが、私もインフルエンザに罹っていたから院内にはいられず、気が気でなかったのですが、帰りました。
数日後に母を訪ねると、母は点滴が嫌で自分で抜こうとしてしまうので、手を拘束されていました。私を見ると目の色を変えて、「そこにあるハサミでこれ切りなさいよ!」とハサミもないのに言っていました。また、集中治療室の窓から空を見上げ、飛行機が飛んでいるのを見て、「今日のテレビ見た?〇〇の社長さんが飛行機に乗って落ちたみたいよ。お気の毒ね」と言っていました。テレビはない部屋だったから、妄想が始まったのだとわかりました。これが一生治らなかったらどうしようと思いました。インターネットで調べたり、友人に相談したりして、せん妄は治るから安心していいとの情報は得ましたが、それでも不安でした。
その後、集中治療室から一般病棟に移動しましたが、リハビリも必要な状況で母は5ヶ月くらい入院していました。せん妄は少しずつ治りましたが、以前と比べると母はぼーっとしていて、勘違いも多く、物忘れも目立つようになりました。

千佐子さんが急に入院することになって、千佐子さんのお店はどうされたのですか?
母の入院中、私が母の代わりにお店に出ていました。当時私は平日9時から17時まで会社勤めをしていて、その後母を見舞いに行き、それから日本橋のお店で終電まで働いていました。家に戻っても頭が興奮していてなかなか寝付けず、そのうち朝になってまた仕事に行ってという生活を2年くらい続けました。
母不在のままお店を続けることも大変で、途方に暮れていました。そんな時に、母が銀座のクラブをやっていた頃からのお客さんの息子さんと、偶然会社の会合で出会いました。息子さんも母のことを知っており、顔の広い方でしたのでどなたかお店を買っていただけないかと相談をしました。そうしたら「誰もいないから、僕がやるしかないじゃないか」と言ってくれて、お店をもらっていただきました。母が倒れてから1年2ヶ月後のことでした。
元々母のお店は、母に会いに来てくれている常連さんが多くいました。なので、お店をもらっていただいてからも、母を訪ねてくる人がいるから、私がいたら母の話ができるからお店に出た方がいいと言われ、それからしばらくはその店でバイトをしていました。私の人生で一番働いた時期だったかもしれません。お店の名前はそのままにしていただいていて、今も母が作ったものがこの世にあるということが、私は嬉しいです。

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月