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体験談 2025.10.20

体験談vol.24 堀圭介さん(仮名)本人<後編>

体験談vol.24 堀圭介さん(仮名)<後編>

・患者さんの病名:S状結腸がん、特発性てんかん
・患者さんの年齢:46歳
・闘病期間:がんの発症から現在まで約4年
・訪問診療を受けている期間:9日目
・家族構成:お母さん、長姉さんと3人暮らし。次姉さん家族が東京近郊に在住。
・インタビューに答えてくださる方:圭介さん本人
・インタビューの時期:訪問診療開始から9日目

16歳の初発のてんかん後、30年の間にてんかんの再発や麻痺の変化はありましたか?

この30年の間に5回くらい大きな発作がありました。幸にして、友人や同僚と一緒にいる時に発症することが多く、ひとりの時に倒れてしまったことはありません。発作が起きるのはいつも疲れていたり、無理をしたり、多忙のあまり抗てんかん薬を飲み忘れたりした時でした。医師からは、てんかんは起きるたびに麻痺が進むから、薬をしっかり飲んで発作を防ぐようにと釘を刺されていました。麻痺の程度は、初発の時からずっと同じくらいで、増悪はありません。S状結腸がんになって化学療法を開始してから、薬の影響なのか、ここ数ヶ月で痙縮が弱くなり、フニャッと膝が崩れてしまうので、かえって立ちにくくなりました。

就職してからはどんなふうに働いていたのですか?

IT企業に就職し、電車通勤をしていました。歩くスピードは少し遅いですが、駅から徒歩7、8分の会社までは問題なく歩けました。
就職してからほとんど眠らずに働いていた時期がありました。夜中の2、3時まで働いてタクシーで帰宅して、5時くらいに起きて会社に行くのを毎日繰り返す生活をしていました。それを強要されていたわけではないし、同僚もそんなふうには働いていなかったのですが、私自身が誰よりも早く出社して誰よりも遅くまで働くことを自分に課していたのです。眠れていなかったから、ずっと頭がオーバーワークになっていました。疲労も溜まっていたし、薬の飲み忘れも多かったので、いま思うと、てんかんの再発も起きるべくして起きたと思います。そういう生活を20代後半から30代後半くらいまで10年ほど続けましたが、ライフワークバランスが叫ばれるようになり、残業に厳しくなったので、やりたくてもできない世の中になりました。

2019年頃に台風で通勤路が浸水し、通勤が難しい状態になりました。それを機に会社が配慮してくれて、私が自社のリモートワーク第一号社員になりました。自社がリモートシステムを販売するような会社だったこともあり、それができるシステムはすでに構築されていたので、試験的に導入してみようという話になったのです。その後コロナの流行があり、さらに私のがんが見つかったので、出社できない状況が続き、私は2019年以降現在までずっとリモートワークをしていて、この間に5回くらいしか出社していません。会社には本当に感謝しています。

どんな思いで激務をこなしていたのですか?

私は常に、自分が至らない、達成できていないという感覚がありました。16歳で倒れてしまって、成し遂げられなかったこと、やりたかったことがいくつかあったはずで、その代わりに何か他のことで成果を出したいという気持ちがありました。
新卒から現在までずっと同じ会社で働いていますが、いまの会社を選んだ理由はとてもシンプルで、大手のIT会社なら私が倒れる前に会社が倒れることはないだろうと思ったからです。当時はITといえば時代の最先端で、そういう会社で認められたいという思いも根底にありました。

ただ、無茶な働き方を続けているうちに何度も倒れてしまって、自分には限界があることを知りました。上司や同僚に迷惑をかけてしまったことは申し訳なく思いますが、限界まで頑張ったことはいい経験になったので、後悔はありません。あの時にしかできないことでした。
同僚は理系の院卒が多く、スタートラインから違いました。私より要領よく働いていましたし、出世のスピードも早かったです。それを妬むことは特にありませんでした。認められたいという思いと、他の人よりも上に行きたい、勝ちたいという思いは少し違うんです。立場も経験も違うので、変な競争意識はなく、同期はとても仲が良かったです。

対談風景

S状結腸がんと診断された時のことを教えてください。

診断される2年くらい前から腹痛があり、近くの内科で過敏性腸症候群と診断されて、薬を内服していました。湯たんぽを抱えて仕事をしていましたが、いよいよ痛みが耐えられないほどになり、大学病院で大腸内視鏡検査を受けたところ、その場でがんと診断されました。内視鏡をやってくれた先生に「これは年代物だよ」なんて言われてしまい、素人の私が見てもこれはがんだろうなと思う画像でした。その時点で6cmほどの大きさになっていました。がんと診断されて驚くよりも「だよね」と思いました。

40歳から大腸がん健診の通知は届いていましたが、多忙を理由に行っていませんでした。診断してくれた先生には、がんのサイズからすると40歳よりもっと前からできていただろうと言われ、いずれにしても遅かったのだとは思います。私はもともとお腹が弱いと自覚していたので、下痢や便秘になってもあまり気にしておらず、発見が遅れたことが悔やまれます。死ぬまでに、大切な人に健診はしっかり受けて、少しでも症状があったら専門科にかかってほしいと伝えたいです。

圭介さんにとって、てんかんとがんという2つの病気はどんな存在ですか?

私の人生と病気は、同居というか、一体化していると思っています。病気のことを切り離して考えることは難しいです。てんかんやがんがない自分の人生については考えられないですし、考えても仕方がないと思っています。
ただ、てんかんを発症した当初は、私も高校生で、それまで思い描いていた将来像と違ってしまったことに葛藤や嫌だなという思いもあって、太もものあたりには自傷があります。小型ナイフでバシバシやっていました。死にたいという気持ちではなくて、余ったエネルギーのやり場がなくてそこで発散していただけです。病気を抱えて生きていくとかそういう覚悟は特に持たなかったです。変にそれを考えるとプレッシャーになってしまうので、考えないようにしていました。

若い頃は走れる夢をよく見ていました。当時は自転車にはなんとか乗れていましたが、走ることは難しかったんです。あと、飛べる夢も見ましたね。スーパーマンみたいに空を自由自在に飛ぶんじゃなくて、地上からすぐ近くのところ、たった30cmくらいの高さを飛んでいる夢でした。走るにしても、飛ぶにしても、夢の中でさえ制限付きだったような気がします。それでも、楽しい夢でした。最近はもうそういう夢は見ないです。
病気になってからも走りたいっていう思いはずっとありました。いまでも走れたらいいなと思います。

医師たち

圭介さんはご自身をどんな性格だと認識されていますか?

私は几帳面できっちりした性格に思われることも多いのですが、基本的に面倒くさがりで、やらなくていいことはやらないし、ちゃっかり者なところもあるし、ハッタリで生きてきた人間です。例えば、仕事で営業支援をしていた頃、童顔なので若造に見られて、「若いのによくやってるな」みたいな評価を取引先からいただくことが多々あったのですが、そういう時には年齢を告白せず、ありがたく評価を受け取っていました。
また、他の人の影響を受けにくいタイプだと思います。あまりよくないですが、人のことを信用できていないんだと思います。自分の価値観や倫理観、死生観などは誰の影響を受けたというより、自分で育ててきたものです。だからもしかしたら、家族ともズレがあるかもしれません。

人間関係を築く上では、相手の立場を尊重することを大切にしてきました。物差しは人それぞれで、自分の物差しも大事ですが、相手の物差しも理解して付き合うことが大事です。「私はこうだ」と主張するばかりじゃなくて、相手の意見も聞かないといけないし、言葉だけでなく態度や行動で相手のことを大切に思っていることを示さないといけないなと思います。
私は人と話すのが大好きです。病気のことなど、変に気を遣われるよりも、気軽に声をかけてくれると嬉しいです。どんどん踏み込んでくれた方がいいですね。

これまでの人生で圭介さんを支えてくれた方はいましたか?

たくさんの方々に助けていただきましたが、感謝しきれないくらいお世話になった方が3人います。
1人目は高校2、3年の時の担任の先生です。音楽の先生で、吹奏楽部の顧問でもありました。足に麻痺が残った状態で通学することになった私に、それまでと同様に接してくれました。ほかの先生は「修学旅行に連れて行くのは難しい」と言っていたのに、その先生が色々と働きかけて行けるようにしてくれました。また、入院期間のために卒業の単位がギリギリだった私を卒業できるように支援してくれました。先生とは長らく会っていませんが、年賀状のやりとりは続いていて、お達者でいらっしゃるようなのが嬉しいです。

2人目は大学時代にアルバイトをしていた写真屋さんの店長です。ほかのアルバイトに何度か応募してみたものの、不採用が続いて意気消沈していたところに、写真屋さんでアルバイト募集の張り紙を見つけて飛び込んだのですが、店長は怪訝そうな様子は一切無く即採用してくれました。4年間ずっと私の働きたいだけ存分に働かせてくれたことには本当に感謝しています。

3人目は大学病院の脳神経内科の先生です。16歳の時から30年も病院に通院していますから、いろんな医師に出会いました。一番長く診てくださっているのが、30代前半から15年くらいお世話になっている、その先生です。ボツリヌストキシン注射と抗てんかん薬の処方をしてくれています。
私が42歳の時にS状結腸がんと診断され、入退院を繰り返していた頃は、ちょうどコロナ禍で家族の面会が禁止されていた時でした。その先生はとても優しい方で、手術の前などに「家族の代わりにはなれないけれど」と言いながら外科病棟にいらしてくださいました。入院中とても心細かったので、見知った先生のお顔が見られただけでほっとしました。

この3人の方々がいらっしゃらなければ、いまの私はいません。

男性患者と医師

いままでの圭介さんの人生を一言で表すなら、どんな人生ですか?

うーん、「試練」ですかね。そんなに悲観的ではないのですが、壁に挑む人生でした。私は小学生の時、跳び箱が好きでした。跳び箱って壁じゃないですか。それを乗り越えるのが好きだったんです。だから、試練がない人生よりも試練がある人生を選びます。壁は自分にとって乗り越えるものですが、絶対に乗り越えられなければならないというプレッシャーはなく、乗り越えられたらいいなくらいの気持ちで挑戦しています。

圭介さんにとって、死とはなんですか?

父方の祖父母は新興宗教の信者で、父もその影響を受けていました。母方の祖母も別の宗教の信者でした。それぞれ別の宗教ですが、どちらの教えでも「死は禍」でした。だから、幼少期には死ぬのが怖いと感じていましたね。小学4年生くらいの時に父に宗教合宿に連れて行かれ、教祖が「禍から救えるのは私たちだけだ」というようなことを言っているのを聞いて、子どもながらにちょっと違うなと思いました。合宿にはその1回参加したきりで、父もそれ以降私に何かを強要することはありませんでした。

そういった生育環境もあってか、大学では宗教文化を専攻し、死生学の研究をしていました。そこでの学びを経て、死は停止だと考えるようになりました。停止したらどうなるのかは、なってみないとわかりません。その時になったらわかるだろうから、前もって考えてもしょうがないと思います。ただ、1日1日その時が近づいてきているのだと思うと、興味は湧きますね。
当たり前ですが、いま生きている人より死んだ人の方が多いんですよね。古墳って全国で8万基見つかっていて、コンビニよりも多いと言われているけど、それだけたくさんの人がいたんだなと思うと面白いなと思います。あと、生きているうちに、後世に何を遺せるかは重要だと思います。私も何か生きた証を遺したい、そのために何ができるんだろうと考えています。

男性患者と医師たち

ご家族に対して伝えたいことはありますか?

私は、自分が亡くなった後のことはきちんと準備しておきたいと思っています。最近、自分が亡くなった後の財産分与の話を家族にしているのですが、家族はそういう話を私が切り出すと落ち着かない気持ちになるみたいで、「そんなことを考えないでほしい」という顔をされます。家族を悲しい気持ちにさせるのは申し訳ないし、私が聞く側だったら同じ気持ちになると思います。ですが、私としては悲観的な気持ちでその話を持ち出しているわけではなくて、自分がやらなければいけないことをそのままにして逝くことのほうが不安なんです。これはいままでやってきたことの延長線上にあることなんです。

家族には心身ともに相当な負担をかけていると思います。私が何か行動することで家族が心乱れているのはわかるのですが、私もこういう状況なので、こればかりは譲れないですね。わかってほしいなと思います。

また、姉たちが私のことをものすごく心配して、ものすごく気遣ってくれているのがよくわかります。ただ、もうちょっと緊張感をなくして、普通に接してくれたらなとは思っています。私の一挙手一投足に反応するんじゃなくて、もっとどんと構えて、普通に家族として接してほしいです。

これからの時間をどんなふうに過ごしていきたいですか?

私の残り時間はある程度示されているので、その中でやらなければいけないこと、やりたいことを明確にして、計画して、あとは楽しめればいいなと思っています。
なるべく点滴を外して、酸素も外して、身軽になって外出したいです。障がい者手帳を持っているので、博物館や美術館の入館に割引が利いたり、無料だったりするんです。今まで仕事を頑張りすぎて、そういう娯楽に時間を割いてこなかったから、これからやっていきたいなと思っています。美術館が好きな友達もいるので、一緒に行けると嬉しいですね。行きたいところがたくさんあります。

家族写真

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月

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