体験談 2025.10.20
体験談vol.24 堀圭介さん(仮名)本人<前編>

・患者さんの病名:S状結腸がん、特発性てんかん
・患者さんの年齢:46歳
・闘病期間:がんの発症から現在まで約4年
・訪問診療を受けている期間:9日目
・家族構成:お母さん、長姉さんと3人暮らし。次姉さん家族が東京近郊に在住。
・インタビューに答えてくださる方:圭介さん本人
・インタビューの時期:訪問診療開始から9日目

堀圭介さん(仮名)は3人きょうだいの末っ子長男として生まれ、高校に入学するまでは持病もなく元気に過ごされていました。16歳の時にてんかん発作を起こし、両下肢に麻痺が生じました。てんかんが原因の麻痺は時間が経つと回復することもあるのですが、圭介さんの麻痺は回復しませんでした。膝を曲げたり伸ばしたりはできるのですが、内転筋群の筋緊張が高く、両下肢が内側に向いてしまい、立位のバランスが不安定で、なんとか歩くことはできますが、走ることはできなくなりました。それでも何度も転びながらも、自分の足で歩き、自転車で出かけました。複数の病院で精査を受けましたが、はっきりした原因はわからず、「特発性てんかん」という病名がつきました。
圭介さんは高校、大学を卒業し、IT企業に就職してからは、睡眠時間を大幅に削ってがむしゃらに働く日々でした。そんな生活を10年ほど続けていましたが、寝不足やストレスが祟ったのか、その間に5回ほどてんかん発作が起きてしまい、30代後半からは無理をしすぎないようにしていました。16歳の時から変わらず、両下肢の麻痺が続いており、筋肉の緊張を和らげるボツリヌストキシン注射を3ヶ月ごとに受けていました。
42歳の時、強い腹痛を自覚して大学病院で精査を受けたところ、S状結腸がんと診断されました。遠隔転移はありませんでしたが、原発巣は6cmとかなり大きくなっており、腹腔鏡でS状結腸を20cmほど切除する手術を受けました。手術後に肝臓転移が出現し、2回肝切除を受けました。3回目の手術から3ヶ月後の、44歳の年の4月に多発肝転移、多発肺転移、リンパ節転移、腹膜播種が見つかりました。翌月から化学療法を開始し、2年2ヶ月の間に4次治療1まで続けました。
46歳の年の9月22日に息苦しさ、腹痛、食思不振で病院に救急搬送されました。CTでは、肺転移が悪化しており、がんによる肺炎を併発していました。また、S状結腸切除後の吻合部の近くにできた腫瘍が腸管を圧迫して、腸管の内腔が狭くなっており、それにより腸閉塞を起こして腹痛の原因になっていました。酸素投与、禁食、医療用麻薬、腸閉塞治療薬で治療し、少し状態が落ち着いた9月29日に退院しました。退院日より当院からの訪問診療を開始しました。
初めて圭介さんにお会いした時、移動の疲れはありましたが、痛みはだいぶ和らいでおり、落ち着いた表情をされていました。圭介さんは、「主治医からははっきりとは聞いていないけれど、僕は末期状態ですか?仕事のこともあるし、準備をしておきたいので、余命やこれからどうなるかを教えてください。覚悟はできています」と、まっすぐな眼差しを向けられました。全身状態や採血結果、CT検査の結果を踏まえ、かなり厳しい状況であることをお伝えしました。その後、状態に合わせて細かく点滴製剤の調整を行い、浮腫を緩和させるためのアルブミン製剤や、栄養状態改善のための脂肪製剤を投与しています。圭介さんの状態は日によって波があり、調子の良い時はベッドの背もたれをあげてパソコン作業を数時間続けられますが、調子の悪い時は腹痛が強く、レスキュー薬2を使いながら横になって過ごしています。排便の状況、食べられるものも日々変わっている状態です。
体調が不安定な状況ではありますが、少しお話ししただけでも感じられる圭介さんの誠実で逞しい生き方に感銘を受け、圭介さんのこれまでの人生について、そしてこれからどう生きるかについてお聞きしたいと切望し、圭介さんにインタビューのお時間をいただきました。

1がんに対する治療薬は一般的に、ガイドラインに沿って、そのがんに対してより効果が高い薬から使っていきます。最初に行う薬物療法を1次治療(ファーストライン)と呼び、効果がなかったり、副作用が出たりすると、体調を見ながら2次治療、3次治療と進めていきます。がんの種類や病理結果により、何次治療まであるかは異なります。
2痛みなどの苦痛が強くなった時に追加で使用する薬剤のこと。
目次
圭介さんのご両親はどんな方ですか?
母はいまも昔も変わらず、優しくて穏やかなひとです。母の作る餃子と春巻きが、私にとっての母の味です。3人きょうだいでしたので、たくさん並べられた餃子や春巻きをみんなで食べるのが好きでした。いまは腸閉塞だから食べられないけれど、最近のマイブームは母の作るカレーにとんかつ屋さんで買ってきた熱々のとんかつを乗せて食べることですね。これがとても美味しいんです。次姉の夫も母の料理を好んでくれていて、母が褒められると自分も嬉しいです。みんなで集まる時は、いつも母が料理を作っていて、それが母の生きがいなんだろうなと思います。
父も優しいひとでした。父は食品メーカーで定年まで働き、老年は認知症が進み、誤嚥性肺炎を患って、3年前に79歳で亡くなりました。最期は病院だったのですが、当時はコロナ禍で面会にも行けず、危篤状態だと聞いて駆けつけた時にはもう呼吸が止まっていたので、それは残念に思っています。
お姉さんおふたりとはどんなご関係ですか?
長姉とは7つ、次姉とは5つ離れています。長姉はパワフルで行動派です。教員としてバリバリ働きながら、プライベートも充実していて、予定を入れまくって人生を謳歌しています。長姉とは幼い頃からそんなに話した記憶がありません。長姉からから見ると7歳も下の弟は、きょうだいというよりは母性の対象なのでしょう。だから、性格的に合うかと言われるとそうではないのですが、長姉にはとても助けられています。別々の性格だからこそ、役割分担できたり、補い合えたりするところもあるのかなと思います。長姉は一度実家を出ましたが、父や私の病気があって家に戻ってきてくれました。通算30年以上一緒に暮らしているので、仲は良い方だと思います。
次姉は母譲りの穏やかさがあり、話しやすいです。次姉に対しては私も素直に自分を出せるが故に、言いたいことを言ってしまい、幼い頃から喧嘩も多かったです。でも、次姉は家族の中で緩衝材になってくれる、家族を繋げてくれる存在だと思います。いまは電車で1時間ほどのところに住んでいますが、私のために1年介護休暇をとり、ほとんど毎日実家に来て、日中そばにいてくれます。少し物忘れが出てきた母のことも看てくれるので、安心です。
精神的な面で頼れる、私のことをわかってくれているなと感じるのは次姉で、行動力があり、一家を率いてくれるのは長姉です。

初めててんかんが起こった時のことについて教えてください。
当時16歳で、吹奏楽部でトランペットとホルンを吹いていました。部活の休憩時間に友達と一緒に購買に走って行っていたのですが、7月のある日、いつものように走っていると、足が思い通りに動かないというか、自分で動かそうとするよりも実際の動きが一瞬遅れているというか、意識と足の動きのタイミングがずれていくような感じがしました。その時は走るのをやめたらその違和感も治ったので、気に留めていませんでしたが、それ以降そういうことがちょくちょく起きるようになりました。
その年の10月26日の夜、自宅2階で中間テストの勉強をしていて、勉強がひと段落したので階段を降りようとしたら、階段の途中で足が動かなくなって、頭から落ちてしまいました。前歯が2本抜けてしまい、急いで歯科を受診してスーパーボンドで歯をくっつけてもらいました。その後大学病院を受診してCT検査を受けましたが、脳には異常はありませんでした。足の出づらさなど「何かがおかしい」ということは周りにも話していましたが、その時点では歩けるし走れたので、自分でもどう説明して良いかわからず、それ以上に詳しい検査は受けませんでした。トランペットもホルンも前歯がないと吹けないので、吹奏楽はこれを機に辞めることになってしまいました。
中間テスト期間中の11月3日、自宅で意識を失って倒れて、大学病院に搬送されました。その時は意識が戻るのは早くて、病院に着く頃には意識はありました。両脚の痙攣やクローヌス3はありましたが、まだかろうじて自分の意思で足を動かすことはできました。即日入院しましたが、入院中にもう一度てんかん発作を起こして、そこからは足が動かなくなりました。1ヶ月くらい入院して色々な検査を受けましたが、結局原因は分からず、診断はつきませんでした。
3意図せず筋肉が反復的にビクッと動くこと
両下肢麻痺が出現した後はどんなふうに生活されていたのですか?
退院して車椅子で高校に通い始め、その後訓練して自転車通学ができるまでになりました。校舎の中では杖は使わずに歩いていました。当時は車椅子や杖を使うことに抵抗がありましたし、若かったので「頑張ってやっていれば、身体がついてくるはずだ。いつか元通り歩けるようになるはずだ。自分にはなんでもできるんだ」という思いもありました。何度も転びながら、傷だらけになりながら、自転車に乗っていました。
自分でも病名をはっきりさせたかったので、てんかんの専門病院をあちこち巡り、できる限りの検査を受けましたが、結局はっきりしたことはわかりませんでした。いま「痙性対麻痺」が起きていることだけが明らかで、その原因が小脳にあるのか、脊髄にあるのかすらわかりませんでした。
いずれは治るだろうという希望もあったし、自分で認めたくないという気持ちもあって、3年くらいは福祉制度に頼ろうとしなかったのですが、19歳くらいの時に医療費の助成や福祉用具の貸与を受けるために障がい者手帳を取得しました。その際に、原因不明のてんかんでは病名が通らないので、一番症状に近いものとして脊髄小脳変性症と診断されました。

高校から大学へ進むまでのことや、大学生活について教えてください。
入院期間があっても、落第だけはしてはいけないという思いがありました。人生から脱線してはいけないという焦りがあったんです。都立高校は私立に比べるとカリキュラムも緩かったので、先生や友達の協力もあって落第せず卒業できました。受験勉強は間に合わなかったので1年浪人をして大学に進学しました。就職するためには大卒が有利だとわかっていたし、姉たちも大卒なので、大学に進学しないという選択肢は私にはありませんでした。
大学時代は写真屋さんでアルバイトをしていました。こんな状態の私を採用してくれたという恩があったので、激務でしたがかなり頑張って働きました。当時の写真屋さんは、フィルムを預かり、現像、プリント、検品を経て、お客さんにお渡しするのですが、この作業が全部立ちっぱなしなんです。力仕事も多くて、ものすごく体力も集中力も必要でしたが、これを乗り切れば自分は生きていけるんじゃないかと思って必死にやりました。最初は全身ボロボロで、湿布をたくさん貼っていましたが、4年間続けることができました。キャンパスライフも楽しもうと思って、学祭の実行委員もやりました。
そういうことをやっていたので、学業は後回しにしてしまって、4年生の時にみんなが1年生で履修済みの必須科目を取る羽目になりました。4年生の真冬に試験があったのですが、その日は大雪で普段は自転車で20分くらいで行ける道のりを1時間以上かけて向かいました。何回も転び、車に轢かれかけました。大学に着いてからも試験会場が広くて、手すりのない階段を上らなければいけなくて、命の危険を感じました。いままでの人生で一番逝っちゃいそうになったのはその日かもしれません。そんなこんなを乗り越えて、ギリギリで単位を取り、卒業できました。いま思うと、高校でも大学でも就職してからも、ずっとがむしゃらに走ってきて、いまここに至るのかもしれません。

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月