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体験談 2025.08.25

体験談vol.21 松本愛子さんのご主人、次女さん、三女さん<後編>

医師と看護師とご主人

・患者さんの病名:右尿管がん
・患者さんの年齢:80歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで2年4ヶ月
・訪問診療を受けた期間:12日間
・家族構成:ご主人、三女さんと3人暮らし。長女さん家族が近隣、次女さん家族が九州在住(現在は都内在住)。
・インタビューに答えてくださる方:ご主人、次女さん、三女さん
・インタビューの時期:逝去から約5ヶ月後

登山の写真

愛子さんとの思い出を教えてください。

ご主人:
愛子とは幼馴染で、大人になってからしばらくは疎遠になっていたのですが、愛子の兄がやっている会社の経理を愛子がやるようになり、税理士である私が教えに行ったのが再会のきっかけでした。愛子が25歳の時に結婚したので、結婚生活は55年になります。
新婚旅行は当時人気だった宮﨑に行き、昨年55年ぶりに同じ場所へ家族で行ってきました。55年前と同じ場所で写真を撮って、次女の家で孫と過ごして、愛子も楽しそうでした。

旅行は家族でもふたりでもよく行きました。私の趣味が登山で、愛子もそれに付き合ってくれて、あちこちの山に一緒に登りました。60代の時にスイスに行ったのもいい思い出です。全長22kmにも及ぶ氷河の上を歩いて下るツアーで、ずっと雪道を歩くし、時々クレバスなどもあるのでまあまあ体力が必要なのですが、眺めも良いし、ガイドもよくしてくれて、すごく印象に残っています。愛子もスイスは良かったと何度も言っていました。
次女の夫との初顔合わせの時には、中央線特急「あずさ」で待ち合わせて、一緒に天狗岳を登り、4人で山小屋に泊まったんです。私の靴底が取れて紐で靴を縛って登ったり、たまたま山頂でコンサートのある日だったりして、いろいろありましたが楽しかったですね。そういうアクティブなことが大好きな家族なんですよ。私が誘うことも多かったけれど、ツアーの申し込みは愛子にやってもらうことも多かったです。77歳で大腸がんが見つかるまでは本当にほとんど病気もなくて、元気だったんです。

アルバム

大腸がんや尿管がんの治療中、愛子さんはどんなご様子でしたか?

ご主人:
77歳の時に区民健診で便潜血陽性を指摘されて、大腸カメラを受けたら、大腸がんと診断されました。でも転移はなく、病院では「ポリープみたいなものだから簡単な手術で取れば治る」と言われ、安心していたんです。それなのに、手術から1年も経たないうちに尿管がんと診断されました。本人はショックだったと思いますが、あまり感情を吐露することはありませんでした。認知症で病状が十分理解できていなかったところもあるのだと思います。

次女さん:
尿管がんと診断された後で「なんでこうなっちゃったのかねぇ。取ったら終わりだって言われていたのにね」と母がボソッと呟いているのを聞きました。認知症とはいえ、ショックはあったような気がします。

三女さん:
尿管がんの抗がん剤治療の間は、髪が抜けたり、皮膚症状が出たり、ふらついて転倒したりといろいろな副作用がありました。でも、吐き気とか食事が全然取れないとか、そういった苦しさはなかったので、なんとか乗り切っていた感じでした。尿管がんが見つかってからは私や父が通院に同行していたのですが、多い時には精神科、整形外科、泌尿器科、循環器内科の4つの診療科へ通院していましたから、通院で体力を消耗して疲れていたようです。

ご主人:
認知症とがんの進行のタイミングはちょうどよかったのかもしれません。がんが先だったらもっと精神的に参っていたでしょうし、認知症がもっと進んでいたら手術や抗がん剤も受けられなかったかもしれません。ちょうど良いペースで両方が進んだから、がんの痛みが出る頃には認知症も進んでいて痛みにも鈍感になっていて、あまりつらい思いをせずに過ごせたんじゃないかなと思います。

談笑風景

自宅療養や自宅での看取りは愛子さんが希望されたのですか?

ご主人:
愛子は亡くなる3、4ヶ月前にはもう自分で意思決定できるような状態ではありませんでした。10月半ばに入院した後、入院していてもよくならない状態だと医師から説明を受けて、病院から家に連れて帰ることを決めたのは私です。私は愛子の病気が見つかった時から、施設などへ預けるのではなく、自分が家で最期まで看病しようと決めていました。それ以外の選択肢は全く考えていませんでした。結婚したということは、相手の面倒をみる、責任をとるということだと思っていたから、何があっても私にできることは全部しようと思っていました。ただ、漠然と家で看取ろうと思っていたとは言え、訪問診療や訪問看護の存在はケアマネジャーさんに紹介してもらうまであまりよく知りませんでした。自分たちだけではどうにもならないことも多かったので、実際に専門職の人に家に来てもらうと、こんなに安心なのだなと感じました。

三女さん:
実際には父は仕事で家にいないことも多かったので、実質的に介護やお世話をするのは私の役割でした。私は介護の経験もないし、どんどん動けなくなっていく母を前にして、これからどうなっていくのかわからなくて、とても不安でした。訪問診療や訪問看護が始まる前は、相談できる相手もいなくてつらかったです。姉たちにはSNSで状況を報告していましたし、姉(長女)は何かとサポートしてくれていたのですが。10月中旬くらい、亡くなる1ヶ月くらい前ですが、不安で耐えられなくなった私が父に「私、もう無理」と泣きついたことがあるんです。介護の疲れ・不安はピークに達していました。父は、「いいよ、俺1人でやるから」とあっさり返事をしました。それを聞いて、父がそんなに覚悟しているのなら、私も腹を括ってやるしかないんだなと覚悟を決めました。約3週間入院し、退院後は香西先生や看護師さんが来てくれるようになったので、私の不安はかなり解消されました。あのまま家族だけで介護をしていたら、とても耐えられなかっただろうなと思います。

次女さん:
私は父や妹が在宅看取りをすると覚悟を決めてくれたから、母の最期に立ち会えたのだと思うので、ふたりにはとても感謝しています。尿管がんが進行してきて、初めて余命宣告された時は翌年の春くらいと聞いていたので、子どもの受験が終わったらすぐに上京するつもりでいました。それが、年末と言われ、さらに妹から「香西先生に明日みんなを呼んだ方がいいと言われた」と連絡が来て、急いで帰省しました。病院だったらそこまではっきり余命を伝えてもらえなかったと思うので、在宅看取りで本当によかったと思います。

2人の女性

愛子さんの在宅介護をしていて、どんなことが大変でしたか?また、その大変なことに対してどんなフォローがあると良いと感じましたか?

三女さん:
介護はもちろん大変でしたが、それ以上に母の気持ちを分かってあげられない、意思疎通が出来ないという事がつらかったです。母の命が自分にかかっていると感じ、そういった責任感やプレッシャーにどう耐えるかが問題でした。病院で説明を聞いても知らない言葉ばかりで、それを咀嚼して理解するのに一苦労でしたし、私がみんなに伝えなきゃいけないということもプレッシャーでした。医師から聞いたことを姉たちにメールで送りましたが、よくわかっていない私が伝えようとしても伝わらないものですよね。だから、在宅療養が始まって、MCS( medical care station:医療用のSNSでグループチャットができるもの)で香西先生から姉たちに直接メッセージを送ってくださるようになり、そういったプレッシャーから解放されました。
また、これから何が起きるのかがわからないという不安、目の前で母が死ぬということへの恐怖等、そういった自分の気持ちをどう整理するかも難しい問題でした。母が亡くなる数日前に姉たちが来てくれた時には、本当にホッとしました。小さい頃から姉を頼りにしてきたので、そばにいてくれるだけで違いました。姉たちには父には言えないような弱音を吐くこともできました。看取りの時、みんなが居てくれて本当に良かったなと思います。

次女さん:
私は遠方に住んでいたので、実際介護に関わることは何もできず、妹からのメールで母の状況を聞いていました。毎回通院の度に、よくわからない専門用語を整理して、私たちにメールすることは妹にとってもかなりの負担だったと思います。
MCSで香西先生たちから連絡をもらうようになって、テキストだけでも状況がわかりやすくタイムリーに確認できるようになったのでそれはとても良かったなと思います。離れた家族でも状況がわかるよう、このような仕組みが訪問診療だけでなく、病院でも普及してくれたら、同様の困りごとを抱えている方たちがどれだけ精神的に楽になるのだろうと思います。

ご主人の笑顔

ご主人:
三女がよく頑張ってくれたから、私は大変だと感じたことはありませんでした。わからないことがあったり、愛子に変化があったりした時に、すぐに看護師さんや香西先生に連絡できるというのはとても安心できました。こういうふうに、自分の体のことをよくわかってくれていて、健康に関する全面的なサポートをしてくれるホームドクターの制度というのは、終末期医療においてだけでなく、すべてのひとにとって必要なんじゃないかなぁと思います。私も、何かあったら香西先生を頼りたいと思いますので、その際にはぜひよろしくお願いいたします。

遺影

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月

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