体験談 2025.07.30
体験談vol.18 大石常雄さんの奥さん<後編>

・患者さんの病名:肺がん
・患者さんの年齢:77歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで1年5ヶ月
・訪問診療を受けた期間:約1.5ヶ月
・家族構成:奥さんと2人暮らし。長女さんが障害者施設に入所中。
・インタビューに答えてくださる方:奥さん
・インタビューの時期:逝去から約5ヶ月後
目次
常雄さんにとって一番大切なものはなんですか?
つねが一番大切にしてたのは、子どもだね。子どものことだけは愛情かけて大事に大事にしていたから、それがあったから50年もなんとか続いたようなもんよ。子どもが小さい頃からいいお父さんだったわ。つねがあぐらをかいていたら股の間に子どもが入っていって、パパって甘えてた。そこで子どもがしょんべんしちゃったって怒らなかったよ。子どもを連れて公園に行ったら、ブランコから落っことした、可哀想なことをしたと、つねが泣きながら帰ってきたこともあるね。
最後につねが子どもに会ったのは、亡くなる1年くらい前、年末年始の一時帰宅の時だね。毎年年末年始だけは、施設に入ってからも家で過ごしていたの。帰ってくるとつねも娘も喜んで喜んで、張り切って世話をして、数日経つと疲れて寝てたわね。いつもは5日間くらいなんだけど、その時は子どもが熱を出しちゃって10日間くらいうちにいたのよ。いま思えば、ゆっくり子どもと過ごせて良かったんじゃないかね。
つねが亡くなる1、2週間くらい前に「娘が俺のところに来た。パパって呼んで頬にチューした」と夢の話を嬉しそうに話してたよ。実際、娘は何かして欲しいことがある時にはチューというか、頬に頬を当ててお願いしてたね。夜中にお菓子を食べたくなった時なんか、つねのところに行って、そうやって起こしてたよ。私だったら絶対あげないけど、つねはそいうところ甘やかしちゃうんだよね。
肺がんと診断された時の常雄さんはどんなご様子でしたか?
つねは病気がわかったって、落ち込む性格じゃないのよ。でも私は、心配で心配でしょうがなかった。肺がんの時はこれまでのがんと違って、進行がんでstageⅣと診断されたんだもの。
つねも表には出さなかったけど、本当は不安な気持ちはあったんでしょうね。どの病気になった時も飄々としてたつねが、肺がんの手術の時には「俺の目が覚めるまでそばにいろ」と言っていたのよ。だから、私はしょうがなく麻酔が切れるまでずーっと病室で待ってたの。つねが目を開けた時は、ベッドの位置が高いものだから私と視線が合わなくて、「顔が見えねぇ、顔を見せてくれ」なんて言っちゃって。こんな見慣れた顔、今更見てどうすんのよって思ったけど、やっぱり心細くなってたんでしょうね。しばらくして、そろそろ帰ると言ったら、「もうちょっといてくれ。もうちょっといてくれ」なんて言っちゃって、そんなふうに言われたのは初めてだったのよ。「また明日来るから」と宥めて帰ったけど。そんな亭主の姿を見たら、毎日行くしかないわよね。優しさとか愛情とかってのじゃなくて、私自身の正義感というか義理人情みたいなもんよ。
肺がんに対する化学療法をしないことは常雄さん自身が決めたのですか?
認知症だけど、ちゃんと考えられる一面もあって、抗がん剤についてはちゃんと自分で決めたのよ。つねは有料老人ホームで勤務している時に、抗がん剤の後遺症に苦しむ入居者さんをたくさん見てきたし、副作用もある薬剤なのに効果が全くない場合もあると主治医から聞いて、「いま痛くも痒くもないのに、なんでやらなきゃいけないんだ」と言っていた。私はつねのきょうだいみんなに連絡して、本人が治療をうけないって言っているんだけどそれでいいかって聞いて、本人の意思に任せてやれって言ってもらえたから、その通りにしたのよ。
つねは50代の時に近くの病院で胃がんが疑われて、がん拠点病院の先生を紹介してもらったんだけど、その先生には本当に感謝しているの。その先生は、胃がんを治してくれただけじゃなく、その後に発症した食道がん、舌がん、下咽頭がん、肺がんも全部見つけてくれたの。消化器内科の先生だけど、ちゃんと全身を診てくれて、私たちにわかるように説明してくれた。先生が病院を異動になる時も「大石さんは僕がずっと診ている患者さんだから」と言ってくれて、先生の異動先についていったの。つねが通院をサボった時はわざわざ電話をくれて、受診したくなったら電話をくださいと言ってくれたの。
肺がんの肝転移が見つかった時には、つねの手を握って「大石さん、僕は化学療法をやった方がいいと思うよ」と言ってくれて、つねは泣いていたけれど、それでもやるとは言わなかった。肝転移が見つかった時に化学療法をやらなかったら余命半年だと言われて、本当にその通りになっちゃった。
認知症と骨折とがんを抱えて、かなり大変な状態だったと思いますが、在宅介護を選んだのはどうしてですか?
自宅で看るのはしんどいなぁとは思ったけれど、腕を骨折している時に入院していた病院の先生に「認知症のひとは自分で訴えないから、病院だと放っておかれるよ」と言われて、本当にその通りだと感じたのよ。つねが入院してから毎日1日も欠かさずお見舞いに行ったのだけど、3日も同じパジャマを着ていて、着替えさせて欲しいって看護師さんに何度か伝えてようやく替えてくれたの。いま思えば、おむつだってちゃんと替えてくれていたのかって気になっちゃう。病院は人手が足りなくてみんな忙しいからしょうがないとは思うけれど、そういうつねの姿を見ると悲しくなっちゃって。私が家でやってあげるしかないか、って決心したのよ。つねは骨折したことも忘れちゃっていて、「帰りてぇ、帰りてぇ」って嘆いてたしね。
在宅介護をしていて、どんなことが大変でしたか?
食べられない、飲めない姿を見ているのが、本当に偲びなくて、それが一番問題だったわね。トイレの手伝いもそりゃあ、大変よ。夜中に「たすけてぇ〜」なんて蚊の鳴くような声でうめいてるから何かと思ったら、自分でポータブルトイレに移れなくて、なんとかしてくれってもがいてるのよ。しょうがないから、体を支えて排泄させて、それが夜中に3回も4回もあるもんだから、5回目はねぇぞって言ってやってたよ。
まぁ、それは私が頑張ればなんとかなることだからまだいいんだけど、食べたり飲んだりするのは私が代わりにやってあげることはできないものね。せめて、食べやすいもの、つねが好きなものをあれやこれや買ってきたり、作ったりしたけれど、それを出しても1口も食べられないのが続くと、こっちも参っちゃうよ。病気なんだからしょうがないと思っても、痩せていく姿を見るのは本当に心配で心配で、私まで痩せちゃったよ。
それでも家で看取れたのは、香西先生や看護師さんが家に来てくれたからだと思う。自分じゃどうしていいかわからない状態だったから、相談できる相手がいるっていうのは本当に救いだった。病院に入院させてもらおうと思って2回もタクシーで行ったのに、入院させられないって言われて、途方に暮れているところで、病院の医療相談員さんに「お願いだから、いいひと紹介して」ってお願いして香西先生を紹介してもらったの。それでその当日に先生と看護師さんが来てくれたから、助かった。つねは、最期はもう足も力が入らなくて全力で私にもたれかかってきて、私だって先生たちに気持ち的にもたれかかれたからなんとかなったのよ。
常雄さんの最期はどんな様子でしたか?
香西先生と看護師さんに死ぬ間際ってどうなるのって聞いて、呼吸の仕方が変わってくると教わっていたから、それは注意して見るようにしていたの。亡くなる前の日の23時くらいに口を開けて呼吸をしていて、口が乾いていたから水をちょっとだけ含ませたらごくんと飲んだから大丈夫だと思って、私も寝たのね。3時くらいに私がトイレに行こうと起きたら、口を閉じているから、あれっと思って手首を触ったら、脈が取れなくて。ああ、人間ってこんなに簡単に逝くんだなって思った。眠るように逝ったんだなって。一瞬、このまま朝まで亡くなったひとと一緒にいるのは怖いかなと思ったけれど、怖くもなんともなくて、朝起きたら自然につねにおはようって声をかけた。
まぁ、食べられない、飲めない期間が長くなくてよかったのかもしれない。食べるとお腹が苦しいんだよって言われると、無理に食べさせることもできなかった。
亡くなる前日に、看護師さんがつねの全身を綺麗に拭いて、髭も剃ってピカピカにしてくれたのよ。この歳になると若いひとと会うこと自体が珍しいから、つねは若い看護師さんに鼻の下伸ばしちゃって。男は何歳になっても男なのよね。いい冥土の土産になったと思うわ。
常雄さんが亡くなって5ヶ月経ったいまはどんなお気持ちですか?
つねが亡くなって 2ヶ月くらいは、なんだかんだ手続きをしながらも、介護から解放された気持ちもあって、たくさん遊んだのよ。いまはその自由を謳歌する時期が過ぎて、少し虚しさを感じるようになってきた。もともと私は世話焼きで、娘のこともそうだけど、ひとに手を焼いてるのが性に合ってるのよ。だから、それをする相手がいなくなって、手持ち無沙汰なのかしらね。ひとりだから寂しいっていうのとはちょっと違うのよ。
生まれ変わったらつねとは一緒にはならないよ。次に生まれかわったらもっと合う人と結婚しなよ、と言って散骨してきたよ。
このアパートに住んで30年以上。亡くなったひとも多いし、一人暮らしができなくなって施設に入ったひともいる。一人暮らしのひと同士助け合って、換気扇が壊れたら2階のひとに相談して、おでんを作り過ぎたらこのひとにあげてって、いろんな繋がりがある。自分より少し年上のひとが多いから、自分もこうなるのかなと思いながら見てる。ふと夜寝る時に、先のことに関する不安がよぎる時があるよ。いまはまだ動けるからいいけれど、動けなくなったらどうしたらいんだろうって。元気でいられるように、煙草もやめたし、なるべく歩くようにしているよ。まぁ、なるようにしかならないんだろうね。自分がそうなった時のことはまだ具体的な準備はできないけれど、そのうち社会福祉協議会に行って、子どものことも相談しておかないといけないなと思ってるよ。
そうそう、つねは毎日夢に出てくるよ。出て来なくていいって言ってるのに、ほんとによく出てくるね。娘と3人でドライブに行ってる夢なんかで、こんなに幸せなのはきっと夢だなと思いながら見てる。つねの仏壇には朝と晩に線香を焚いて、煙草は湿気るから月1回は新しいのに替えて、月命日には新しい酒も用意してやるんだ。愛情なんかじゃないよ。化けて出てきたら困るだろう。長いことお疲れ様、と思って毎日線香をあげている。何十年もいると、愛情とは言わなくても、情はあるよねぇ。
エピローグ
奥さんにインタビューさせていただいた約1週間後に、奥さんからお電話をいただきました。
今朝トイレに入っている時にピンポンが鳴って出たら、つねがいたのよ。洗濯物をどっさり抱えて、帰ってきたの。「あんた、死んだと思ったよ。先生に診断書を書いてもらっちゃったよ」と言ったら、「俺は生きてるよ」と洗濯物を渡してきた。私は洗濯物を溜め込むのは嫌いで、すぐやらないと気が済まないから、洗濯をし始めたの。つねが「お腹すいた」なんて言い出して、最期のあんなに食べられない姿を見ているから、私は嬉しくて嬉しくて、「いま食べるものないから、餃子でも買ってきな」ってお金渡したの。つねは「俺は死んでねぇから、先生に電話しといてくれよな」と言いながら出かけていった。
そこでパッと目が覚めたのだけど、いままでの夢と違って本当に鮮明で、夢か現かわからないくらいだった。つねが先生に電話しろって言ってたから、かけちゃった。
編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月