体験談 2025.07.30
体験談vol.18 大石常雄さんの奥さん<前編>

・患者さんの病名:肺がん
・患者さんの年齢:77歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで1年5ヶ月
・訪問診療を受けた期間:約1.5ヶ月
・家族構成:奥さんと2人暮らし。長女さんが障害者施設に入所中。
・インタビューに答えてくださる方:奥さん
・インタビューの時期:逝去から約5ヶ月後
常雄さんは酒とタバコが好きな判子職人で、豪快で世話焼きな奥さんと、重度の知的障害のある娘さんとにぎやかに暮らしていました。50代の時に胃がんと食道がんが見つかりましたが、どちらも内視鏡切除で完治しています。60代で舌がんにも罹患し、舌の一部を切除しました。74歳の時に下咽頭がんと診断され、内視鏡切除を受けました。また、70代になってから少しずつ物忘れが進み、73歳の時に詐欺に遭ったのを契機に神経内科を受診して、レビー小体型認知症と診断されました。徐々に認知機能は低下し、不注意で転倒したり、ガスの空焚きでボヤを起こしそうになったりしたこともあったそうで、次第に奥さんは目が離せなくなっていきました。
76歳になる年の春に右肺がんStageⅠA2と診断され、5月に右上葉切除を受けました。術後に化学療法を勧められましたが、症状もないのに副作用が出るかもしれない薬は使いたくないと、本人が希望しませんでした。翌年5月のCTで肝転移が出現しており、医師からは化学療法を再度提案されましたが、やはり本人が拒否しました。同時期から食欲が落ち、それからの数ヶ月の間にどんどん食事量が減り、痩せてきて頻回に転倒するようになりました。同年9月下旬には腹部膨満感や息苦しさも自覚するようになり、病院からの紹介で10月9日より当院からの訪問診療を開始しました。
腹部膨満感や食欲低下の原因としては、肝不全と、肝腫大によって胃や十二指腸が圧迫されていることが原因と考えられました。腹部膨満感を緩和するために10月9日より医療用麻薬の貼付剤を開始しました。また、採血で低Na(ナトリウム)血症があり、原因として塩分の摂取不足と、肺がんのせいで尿中にNaが流れ出てしまう状態(SIADHという疾患です。低Na血症が増悪すると、意識障害や強い倦怠感が出現します)を疑い、10月10日から高張Na液による補正を開始しました。医療用麻薬とNa補正により一旦症状は落ち着きましたが、病状の進行は止められず、数日経つと症状がまた再燃することを繰り返しました。症状に合わせて薬剤を増量していましたが、内服が困難になってきたため、10月30日に医療用麻薬の持続皮下注射を開始しました。夜間の不眠と幻覚・妄想も見られるようになり、抗せん妄薬や鎮静剤を夜間に注射して症状緩和を図りました。
訪問診療を開始してからの変化はかなり急速で、10月20日以降は昨日できたことが今日はできないの繰り返しでした。奥さんは当初はこれからの変化や在宅看取りのイメージがつかず、入院してもらうかどうかを迷っていましたが、10月21日には変化を目の当たりにして、残された時間を家で過ごさせてあげたいと思うようになり、在宅看取りを決意されました。11月1日には四肢が冷たくなって酸素飽和度が測定できなくなり、呼びかけに反応しない昏睡状態となっており、余命数時間〜1週間であることを奥さんにお伝えしました。同日23時には少量の飲水ができたそうです。11月2日3時頃、奥さんがふと目を覚まして様子を見た時に呼吸が止まっていることに気づかれました。
奥様は「先生に言われてもまさかと思っていたけれど、ほんとにすぐ逝っちまった。11月10日が50年の結婚記念日だったのよ。でも、その日は施設に入っている長女の面会の日だから、今日亡くなったのは、長女に会ってこいってことなのかもね。私のことは女中だとしか思ってないような奴で、ほんと最期まで手をかけさせて、このやろう、と思っていたけれど。いやだ、涙なんか出ないと思っていたのに。でも、全然苦しそうじゃなかった。私もこんな最期がいいわ。先生頼むわね」とおっしゃっていました。奥さんは常雄さんにはいつも毒舌ですが、「おい、つね〜。しっかりしな」と言いながらいつも常雄さんのことをとても気にかけて、丁寧に介護されていました。
常雄さんのご逝去から約5ヶ月後の桜吹雪の舞う日に、奥さんから常雄さんへの想いについて語っていただきました。
常雄さんはどんな方でしたか?
つねとは50年も一緒にいたけれど、最初から最後まで気難しい、こだわりの強い、扱いの面倒なひとだったわよ。言いたいことがあっても黙ってむすっとしているようなひとでね。私は細かいことは気にしないし、言いたいことは言うから、まるっきり、180度性格が違うのよ。
つねのことを考えると、悪いところばっかり浮かんでくるの。例えば、仕事に行く日でも自分では起きられなくて、私が子どもと泊まりで出掛けている時だって、電話して起こさないといけなかったのよ。あと、床屋に自分から行こうとしたことは一度もなくて、私がうるさく言って無理やり行かせていたわ。晩年はドライバーの仕事をやっていたのだけど毎日晩酌していたから、人様を乗せるのに前日にそんなに飲んで大丈夫かといつも叱ってたわ。72歳で退職してからは好きなだけ酒もタバコもやって、家でゴロゴロしているだけだったからどんどん体力も落ちちゃって。私が散歩に行ってこいって言っても、なんで俺が行かなきゃいけないんだって、動かなかったのよ。頑固だから私が言ったって聞かないの。結婚生活はほぼ喧嘩よ。
いいところはあんまり浮かばないんだけど、つねが18年勤めた有料老人ホームを退職するときに、同僚から寄せ書きをもらっていて、みんないいこと書いてくれてたのよ。あのひと、手先が器用で凝り性だから、棚とかそういうの作ってあげたのが喜ばれたみたい。人間ひとつくらいはいいところがあるものよね。そう言えば、退職する時も私に1つも相談しないで、辞めてきたって言ったのよ。そういう大事な話も私には全部事後報告なのよね、あのひとは。
ひとりで出かけることはほとんどないひとで、たまに仲間と釣りに行く以外は、いつも家族でのお出かけだったわね。子どもが車が好きで、どこかへ出かけたい時は、言葉でそれを伝えられないもんだから、ハンガーに掛かっているつねの上着を引っ張って、つねに着せようとして、気持ちを現していたの。そういうふうにされると、つねは本当に嬉しそうだったわね。子どものことはとても大事にしていて、それは私にもよくわかったわ。私たちは常に子ども中心だったわね。
結婚したのは私が25歳、つねが27歳の時で、1年後に子どもが生まれたのよ。私は百姓の家に産まれて、小さい頃から休みなく働く生活は嫌だって思っていたから、都会のひとに嫁ぎたいと思っていたの。それで知り合いの知り合いでつねとお見合いしてね。つねはお兄さんとふたりで判子を掘る仕事をしていて、細かい作業を黙々とするのが好きだから天職だったんでしょうね。きちんとするところはきちんとしているひとなのよ。
なんでつねを選んだかって、当時はお見合いだから選ぶとかでもなかったけれど、ふたりで食事して支払いの時につねの財布を見たら、すごいたくさんお札が入っていたから、このひとはお金持ちなんだと早とちりしちゃって。それが腐れ縁で50年も一緒にいるとはね。
好き嫌いが多くて、見慣れない料理には箸をつけようとしないひとで、私が手をかけて作ったご飯を食べなくて私が怒ることはしょっちゅうあった。それでもね、イカが好きで亡くなる4、5日前にイカの刺身を買ってきてあげて、1切れでも食べられたらいいと思ったら、全部食べたの。あれは嬉しかったわ。糖尿病や高血圧だったから塩分も糖分も制限していたのだけど、最後はもうそんなこといいから好きなものを好きなだけ食べさせてあげたかった。食べている姿を見たら、私もう泣けてきてね。これなら食べられるんじゃないかって思うものを買ってきては、ひとくちも食べられないのを何回も見てきたから、イカを丸っと食べた時の気持ちはもう言い表せたものじゃないのよ。
常雄さんの認知症の経過や、トラブルについて教えてください。
70代になって物忘れが進んだなとは思っていたけれど、まさか認知症だとは思っていなかった。73歳の時に詐欺に遭ってそれがきっかけで病院に行って診断されたのよ。
普段から再三、知らないひとからの電話には出るなと言い聞かせていたし、テレビでも詐欺に気をつけろってCMは頻繁に放送されているのに、騙されちゃったのよ。つねひとりの時に、家に「あなたのキャッシュカードが他県で使われているから、確認に行く」というような電話がかかってきて、家に来たひとにキャッシュカードを3つ全部渡して、暗証番号も教えちゃったの。その場で相手がカードをハサミで切ったらしいけど、ICチップのところはうまく切らないでおいて、後でテープでくっつけて、お金引き出されちゃっていたのよ。私に言わないから、そんなことが起きているなんて知らなくて。翌日が私の誕生日だったんだけど、つねが珍しく自分で銀行に行くなんて言い出しておかしいなと思っていたら、警察がどたどたやってきて、それが発覚したの。3つの口座にあったお金全部引き出されていて、保険に入っていたから還ってきたお金もあったけれど、1円も還ってこない銀行もあったわ。その騒ぎの時に刑事さんから認知症なんじゃないかって指摘されて、神経内科を受診して、レビー小体型認知症っていう診断がついたの。まぁ、診断されたところで治せないんでしょ。そこから、だんだん進行して、駅とか病院とかで道に迷ったり、待っていてと言っても待っていられなくなったりして困ったわ。ヤカンを空焚きしてボヤを起こしそうになったこともあったわね。
最後の半年くらいは、体力が落ちたのと不注意と両方のせいで、本当に何度も何度も転んじゃってね。転んで腕の骨を折って手術もしたわ。骨折したことも忘れて、なんで病院に行かなきゃいけないんだ、なんて言い出してね。あんなに腫れ上がっていたのに、不思議なことに痛みも感じなかったみたいなのよ。認知症って痛みにも鈍感になるのね。
長女さんのことについて教えてください。
結婚した翌年に子どもが生まれたんだけど障害があって、大きくなってからも歩いたり、数語話したりはできるんだけど、道路なんかに飛び出しちゃうから、片時も目が離せない状態だったよ。
私が48歳の時に肺化膿症で1ヶ月入院して、その間、あの子は初めて施設で過ごしたの。つねは毎週迎えに行って、私のところに面会に連れてきてくれたけれど、施設に戻りたくないって泣き叫ぶ姿を見たら不憫で、むしろ連れてきてもらわない方がいいとすら思ったわ。
20年くらい前からつねがいろんな病気で入退院を繰り返すようになって。親としてはずっと子どものそばにいてやりたい気持ちもあるけれど、どうしたって親の方が先に逝くでしょう。だから、親が元気なうちになんとかあの子が一生過ごせるところを探してやろうと思って、その頃に施設に入れたのよ。
施設に入ってすぐは、月1、2回くらいドライブに連れて行って、それを何年か続けたわね。いまは数ヶ月に1回の施設の交流会の時に私だけ行ってるけど、私の姿を見たらすごい喜ぶのよ。私じゃなくて私がリュックいっぱいに詰めているお菓子が目当てなんだけどね。
私たち夫婦は喧嘩ばっかりだったけど、子どもの前で喧嘩すると子どもが大泣きするから子どもがいる間は喧嘩しなかったのよ。
編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月