MENU

体験談 2025.07.23

体験談vol.17 新井邦久さんの長妹さん、末妹さん<後編>

談笑風景

・患者さんの病名:肺がん、右上腕コンパートメント症候群
・患者さんの年齢:68歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで11年
・訪問診療を受けた期間:8ヶ月
・家族構成:独居。近隣に長妹さん在住。隣県に末妹さん在住。
・インタビューに答えてくださる方:長妹さん(尚子さん)、末妹さん(美恵子さん)
・インタビューの時期:逝去から約6ヶ月後
・インタビュー同席者:
 たーとす薬局:新井さん(薬剤師)、ほか
 公式サイト:https://cmed.co.jp/tatosu/
 池袋本町訪問看護ステーション:村島さん(看護師)

邦久さんとお父様の関係性と、邦久さん自身の闘病期間と重なった、お父様の看取りについて教えてください。

長妹さん(尚子さん):
父は、兄に対してものすごい愛情があったのだと思います。こうなって欲しいという思いが強すぎて、兄とぶつかることも多くありました。でも、根底にはお互いを好きな気持ちがあったのだと思います。

肺がんと診断された当初、兄は父には病気のことを隠していましたが、兄があまりに頻回に長期入院するので父は不審がっていました。そろそろ父に隠すのにも限界があることを私が兄に伝えたところ、兄は唐突に「親父、俺、がんだから。親父より先に逝っちゃうかもしれないよ」と言いました。父は「俺には隠さないで全部言ってくれ。一番いい治療を受けろ」と、兄にお金を渡していました。兄は父の気持ちを思って黙って受け取っていました。口下手な男同士、仕事でも牽制しあっていたから、素直にいたわりや感謝の言葉を掛け合える関係性ではなかったのです。そんな父にとっての気遣いの言葉が「お金あるのか?」だったのです。
手術のために入院する日に、兄は父に「俺はこれで帰ってこないかもしれないから」と父に言い、父はしかめ面をして黙り込んでいましたが、兄が出かける間際に窓から大声で「おい、お前頑張れよ」と叫び、兄は「馬鹿野郎」と返していました。

父は肺気腫で1ヶ月半ほど入院していたのですが、いよいよと言われた時に、父の希望通り家で看取ってあげたいと思いました。亡くなる前の1週間だけ家で介護したのですが、その期間は本当に大変でした。痰がすごくて1時間おきに吸引しないといけないし、せん妄もひどくて昼も夜も10分おきに呼ばれます。きょうだい3人ともへとへとに疲弊してしまいました。そんな最中に、兄の抗がん剤投与のための入院の時期が来てしまいました。入院の前日は兄が父の枕元にどかっとあぐらを組んで座り、父のことをずっと看てくれていました。兄が入院した後、深夜に「親父どう?」と連絡が来て「虫の息どころじゃない(それよりもっと弱い)」と伝えたところ、兄は抗がん剤をやらずに飛んで帰ってきてしまいました。看護師さんには「新井さん、ご飯食べて寝にきたようなものね」と言われたそうです。その数日後に父は亡くなり、父の葬儀を終えてから兄は治療を再開しました。兄は親より先に逝くことだけはしたくないと、ずっと頑張っていたのだと思います。父が亡くなってから、張り詰めていたものが切れて、ガクッときたのがわかりました。

父は口にはしませんでしたが、兄ががんになったことがとてもショックだったのだと思います。跡を継がせた長男が自分より先に逝くかもしれないというのは、親として耐え難い苦しみなのでしょう。「新井家はこれで終わりだ」とよく嘆いていました。それで、結婚して家を出ている私に「新井になれ」と話が来て、相談の結果、私の長男(父の孫)を父と養子縁組させて、父の子となりました。私の長男もいまは42歳になり、新井家を継いでくれています。

談笑風景

病気になる前とその後で邦久さんは変わりましたか?闘病中はどんなご様子でしたか?

長妹さん(尚子さん):
病気になっても面倒見が良くて、口が悪い兄のままで、最期まで兄は兄だなと思いました。昔からああ見えて気弱なところがあって、病気になってからの方が、そういう部分を素直に見せてくれるようになった気はします。いっぱい迷惑をかけられて、頭に来たり、笑ったりしましたが、いまとなっては介護中のことも含めて、いい思い出ばかりです。

闘病期間中、基本的には兄は1人で通院していたのですが、検査結果の説明などの時には私たちが同行していました。兄は自分から付いて来てとは言わないのですが、付いて行かないと「どうせ俺のこと心配じゃないんだろ」と言い出すんです。だから、兄が「来なくていい」と言ったって、「行かせてもらいます」と下手に出ていました。「親と俺が体調悪いのだと、親の方が心配だろ?」なんて言い出す時もあって、「断然お兄ちゃんのことの方が心配だよ」と言うと「ええ、そうなんだ」と喜んでいました。それは私の本心で、父は98歳まで生きたから大往生だと思うし、父が亡くなった時に寂しさはあっても、心残りはありませんでした。でも、兄のことは病気がわかった時からずっと心配で心配で。1日でも長く生きてくださいと、あちこちにお参りに行きました。

亡くなる1年前の8月に猛暑炎天下のなか、兄はどうしても近くの雑貨店に買い物に行きたいと言い出しました。何か買いたいというより、自分で買い物に行くっていうことが大事だったのかなと思います。その頃の兄は家の中はやっと歩けるけれど、捕まるものがないと数歩も動けない状態でした。車椅子は恥ずかしいから嫌だと言い、サークルウォーカーに寄りかかるようにして、私と妹と3人でよろよろ歩いていきました。私1人なら10分もかからない道のりですが、その日は1時間以上かけ、ろくに店内を見る余裕もなく、帰りも果てしない道のりを懸命に歩いて帰りました。

末妹さん(美恵子さん):
ヘルパーさんがおむつ交換をしてくれている時に私の娘が見舞いに来たことがありました。その時兄は「おぅ、俺もうちょっとしたらビンビンになるから見るんじゃねぇぞ」なんて言っていました。あの動けない体で、死を間近に感じている人が、そういうことを言っちゃうっていうのが、兄らしくておかしくて。体は病人だけど、口は達者で、こだわりが強い兄のままでした。介護するときにちょっと手順が違うと怒鳴ることもありましたし、混乱が進んで記憶も曖昧なのに急にシャキッとして私の間違いを指摘されたこともありました。

医師・看護師

お父様と邦久さんのおふたりの在宅介護・看取りを経験して、どんなお気持ちですか?

末妹さん(美恵子さん):
兄が退院した当初は、車椅子で台所に行けるくらいには回復するのではないかと期待していたのですが、実際にはベッドからポータブルトイレに移るのにもとても苦労しました。兄は右上下肢に強い痛みがあり、「そこに触るな」「また触れた」「痛い」と移動のたびに大騒ぎで、排泄が終わってベッドに戻ったと思ったら5分もしないうちにまた便意があって、ということが続いて、兄自身にとっても病院にいる方が楽なんじゃないかと思った時もありました。姉は介護中に腰椎を圧迫骨折してしまい、腰が痛くて兄の元に来ることができない時期もありました。それでも、本人がここにいたいと言ったので、姉と相談してそれを叶えてあげたいと思いました。大変だったけど、いっぱい一緒に過ごせたから、在宅介護を選んでよかったです。

兄は独居だけど、姉が近くに住んでいたからなんとか在宅療養が続けられました。何をするにも家族の同意や手助けは必要で、遠方に住む私しかきょうだいがいなかったら、在宅療養はそもそも選べなかったかもしれません。また、私たちの力だけではどうにもならなかったと思うので、看護師さんやヘルパーさんや先生たち、支えてくれるひとがいて、私たちと兄がぶつからないように精神的にも間に入ってくれて、それで兄といい時間を過ごすことができました。

父の最期の時の在宅介護が壮絶だったこともあり、兄の最期は病院でと私たちは考えていましたし、兄もそのつもりで緩和ケア病棟に登録していました。でも、亡くなる5ヶ月くらい前、兄がポータブルトイレに移れなくて度々転倒していた頃に香西先生から「入院したいですか?」と聞かれて、兄は「僕は入院します」と即答でしたが、姉は「在宅での体制が整ってやっと家での生活に慣れてきたところだから、入退院後にまた一から手続きを始めるほうが大変だ」と言いました。ケアマネジャーさんは「退院後に同じ体制ですぐ始められるように調整するので大丈夫ですよ」と言ってくださいましたが、それでも姉は在宅療養の継続を希望しました。結局、兄は本当は家にいたいのだと私も姉も気づいていたし、姉は家で過ごさせてあげたかったから、兄に気を遣わせないようにそれを言い訳にしたのだと思います。

長妹さん(尚子さん):
病院だったら、こんなふうに一緒に過ごす時間は長くなかったのだろうなと思います。兄が家でリハビリをものすごく頑張っている姿をずっと見てきました。なんでこんなに頑張れるんだろうと思いました。手も足も動かすとものすごく痛がったのに、歩けるようになりたいと、痛みを堪え、自主トレも熱心に続けていました。物忘れが進まないようにノートに出来事を書いておくように勧めたら、頑張って書いていました。だんだん衰弱して眠っている時間が長くなって書けなくなっていったのですが、最後に震える掠れた文字で「ひさこ」と書かれているのを見つけた時には涙が出ました。

妹さんたち

邦久さんの最期の時のことを教えてください。

末妹さん(美恵子さん):
香西先生に今日が峠だと言われ、姉とふたりで泊まっていました。その夜はもうしゃべることができない状態でしたが、私の手をギュッと力強く握り締めてきて、そんなの初めてだったから、柱と間違えてるんじゃないかしらと思いました。早朝にふと目が覚めて、兄を見ると、呼吸が止まるギリギリのところでした。兄にはやく起きろよと言われたような気がしました。不思議な体験でした。家で看取ることを決めてから、私たちも誰もいない間に息を引き取ってもしょうがないと覚悟していましたが、最期の瞬間に立ち会えてよかったと思います。息を引き取った直後に私が「お兄ちゃん、ありがとね。だめな妹でごめんね。生まれ変わったら今度は結婚しなね」と声をかけたら、「うるせぇよ」と言っている気がしました。

みなさんのおかげで、苦しまずに、いい最期を迎えることができました。兄は私たちには直接感謝の言葉を言うことはほとんどなく、見舞いに来ることやそばにいることが当たり前のように振る舞っていました。でも、薬剤師さんや看護師さんには時々伝えてくれていたようで、「この前美恵子に言い過ぎちゃったんだよ」などと兄が言っていた言葉を間接的にお聞きして、間にいろんな方々が入ってくださることで、私たち家族の関係がよりいいものになったように感じます。身体的な介護だけでなく、精神的なケアもしていただけました。兄だけでなく、私たちのことも十分にケアしていただきました。

長妹さん(尚子さん):
私が兄と最後に交わした会話は「世話になったな。ありがとうな」「お兄ちゃん長生きしてよ」「おう、頑張るよ」でした。

父も兄もいなくなって、頼れるひとがいなくなった不安から、私はワーワー泣いていました。そんな時に私の長男が「俺がいるから、大丈夫だよ。もっと頼って。家のことも全部俺に教えて」と言ってくれました。長男は父の養子になってから、よく父と兄と話していて、これからの新井家のことに関してもふたりから託されているようでした。なんだかんだで、私の息子だから頼れと言われてもと思うところもありますが、そう言ってくれる存在がいるというのはとても大きいなと感じました。もう私も、息子を頼っていい年になったんだなと感じました。

薬剤師さんたち

半年経ったいまはどんなお気持ちですか?

長妹さん(尚子さん):
兄に会いたいです。帰ってきて欲しい。話がしたい。これ美味しいねとか、そういう他愛のない会話がしたいです。兄の訃報を伝えたら近所の方々や不動産屋のひとまで泣いてくれて、そういうのを見て、改めて兄はいいひとだったんだなと思いました。晩年は車に乗れなくなって、よく近所を歩いていたから、かえってご近所さんとは仲良くなったみたいです。香西先生やケアマネジャーさんも兄がいなければ出会わなかったでしょう。兄を通じていろんなひととの繋がりをもらいました。

末妹さん(美恵子さん):
がんの間の印象が強くて、しばらくは思い出すのは最期の時の顔も体も浮腫んだ兄の姿だったのですが、半年経ってようやく、いろんな思い出が出てきて、いろんな兄の姿が浮かぶようになりました。こうやって思い出して語ることが、兄の供養になるのかなと思っています。いまだってきっと聞いていて、そんなことを言うなよなんて文句を言っていると思います。

写真

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月

トップ/スペシャルコンテンツ/体験談/体験談vol.17 新井邦久さんの長妹さん、末妹さん<後編>