体験談 2025.07.23
体験談vol.17 新井邦久さんの長妹さん、末妹さん<前編>

<写真左側から>
むすび在宅クリニック 看護師
むすび在宅クリニック 院長香西友佳
末妹さん(美恵子さん)
長妹さん(尚子さん)
池袋本町訪問看護ステーション 村島さん(看護師)
たーとす薬局 新井さん(薬剤師)
薬学部実習生
・患者さんの病名:肺がん、右上腕コンパートメント症候群
・患者さんの年齢:68歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで11年
・訪問診療を受けた期間:8ヶ月
・家族構成:独居。近隣に長妹さん在住。隣県に末妹さん在住。
・インタビューに答えてくださる方:長妹さん(尚子さん)、末妹さん(美恵子さん)
・インタビューの時期:逝去から約6ヶ月後
・インタビュー同席者:
たーとす薬局:新井さん(薬剤師)、ほか
公式サイト:https://cmed.co.jp/tatosu/
池袋本町訪問看護ステーション:村島さん(看護師)
新井邦久さんはお父様から家業を継いで塗装業を営んでおり、口は悪いけれど、情に熱い昔ながらの職人気質で、近所の方から慕われていました。筋骨隆々の見た目とは裏腹に、50代後半からはいろんな病気に罹り、長く闘病生活を送ってきました。そんな中、邦久さんが66歳の時にお父様の間質性肺炎が悪化し、家で過ごしたいというお父様の気持ちを尊重して病院から自宅に連れ帰り、妹さん達と力を合わせて不眠不休で1週間介護を行い、自宅で看取りました。
邦久さんは57歳の時に左下葉肺がんstageⅢAと診断され、放射線療法と化学療法を受けました。61歳の時に再発し、化学療法を再開しました。化学療法の効果はあったものの、治療関連の有害事象も多く、白血病を発症して輸血をしたり、顎骨壊死や中耳炎に罹患して歯科や耳鼻科に通院したりしました。67歳の時に脳転移が見つかり、γナイフと全脳照射1を行われました。全脳照射から5ヶ月程経過してから徐々に記憶力の低下を自覚し、邦久さんは不安に思っていました。化学療法の効果が乏しくなったことや全身状態を考慮し、67歳の年の6月に抗がん治療を中止することを主治医から勧められ、以降外来で経過観察されていました。
同じ年の9月末にインフルエンザにかかり、自宅で転倒して右手を下敷きにした俯せの状態で動けなくなっているところを末妹さんが発見し、かかりつけの病院に搬送されました。右前腕のコンパートメント症候群2の診断で治療を受けましたが、右前腕の神経損傷は回復せず、右肩や肘はわずかに動かせるけれど、手首や手指は全く動かせない状態になりました。かかりつけ病院で1ヶ月入院した後にリハビリ病院に移って約2ヶ月間リハビリを受け、68歳の年の1月に退院しました。ただし、入院中に転倒して右股関節の痛みのために立ち上がりが困難になっており、万全とは言い難い状態での退院でした。
退院の時点で、右上肢はほとんど実用的には動かせず、右股関節痛のために右下肢に体重をかけたり膝を曲げたりすることも難しく、なんとか左側をうまく使ってポータブルトイレへ移乗していましたが、疲労のため座り込んだり、転倒してしまったりすることも多く、ひとり暮らしを続けていくために、頻回にヘルパーさんや看護師さんが訪問する必要がありました。痛みに対しては鎮痛剤やボトックス注射を使用し、より効率よく安全に移動できるように手すりやポータブルトイレの位置を工夫して転倒対策を試みましたが、がんの進行とともに衰弱が進み、3月末には介助しても移乗が難しい状態となりました。
4月から喀痰、咳嗽が出現し、肺がんに伴う閉塞性肺炎3とがん性リンパ管症4を疑い、抗菌薬とステロイド、去痰剤を開始し、2週間程度で軽快しました。食欲も低下してきていましたが、ステロイド開始後に食欲が亢進し、ステロイド漸減後も食欲旺盛な期間が続きました。8月上旬から呼吸困難を訴え、SpO2が92%程度に低下したため、在宅酸素療法を導入し、医療用麻薬の注射剤を開始しました。同時期より傾眠がちになり、脳転移の増大が原因と考えられ、8月末からは食事量が減り、1日中うとうとして過ごすようになりました。
在宅療養の開始当初の妹さん達は、「父の在宅介護はたった1週間だったけれど、喀痰吸引を1時間毎にやらなければならず、せん妄もあって、ものすごく大変で本当につらい思いをした。それがあったので、兄の在宅看取りは一切考えていません。兄も同じ気持ちだと思います」とおっしゃっていました。しかし、約9ヶ月の在宅療養の間に、ヘルパーと訪問看護が連日入ってサポートする体制ができており、転倒したり、食事が取れなかったり、痔が痛くて邦久さんの機嫌が悪くなったりといった困難もみんなで乗り越えてきて、8月下旬には妹さんお二人とも在宅看取りを決意されました。8月中に邦久さんから妹さん達に葬式やお墓や相続のことに関してのお話があったそうで、それも妹さん達の安心につながりました。
9月に入ってさらに眠っている時間が長くなり、眠っている間は落ち着いているけれど、目が覚めると息苦しさを訴えるようになりました。それでも邦久さんは時々ブラックジョークを言って、妹さんや私達を和ませてくれました。9月10日より持続的な呼吸困難があり、医療用麻薬を増量し、鎮静剤の持続投与も開始しました。妹さん達に見守られる中、9月11日早朝に旅立たれました。死亡診断の際には、長妹さんは「本当に家で看取れてよかったです。兄の在宅療養中に人生で初めて兄と本気の喧嘩もして、それもいい思い出です」とやり切った様子でお話されており、邦久さんはそれを聞いて笑っているような、いいお顔でした。
邦久さんのご逝去から約6ヶ月後のある日、当院と、訪問調剤を行っていた薬剤師がご自宅を訪問し、妹さん達に介護をおこなっていた期間とその後のお気持ちについて語っていただきました。
1 γナイフは脳内の病巣部にのみγ線ビームを集中照射する放射線治療で、全脳照射は脳全体に放射線を当てる治療。併用することもある。
2 筋肉は筋膜に包まれているが、打撲や圧迫などで筋膜が破れていない状態で中の筋肉が腫れると、筋膜の中がパンパンになり、圧力が高まりすぎて筋肉が壊死しかけた状態になること
3 気管から肺胞に至る途中で腫瘍などによって道が塞がれ、その奥で細菌が増殖して肺炎を起こしたもの。通常の肺炎よりも治りにくい。
4 腫瘍細胞が肺内のリンパ管に浸潤して、リンパ管塞栓をきたしたもの。咳嗽、呼吸困難、微熱などの症状を生じる。
邦久さんはどんなお兄さんでしたか?
長妹さん(尚子さん):
良いところも悪いところもたくさんある兄でした。気を遣うタイプなのに、口が悪いから勘違いされてしまうことがよくありました。それで後で私に「なんだいあいつ。俺がこんなに気を遣っているのに」と愚痴をこぼしていました。
小さい頃からやんちゃで、餓鬼大将でしたね。兄にとっての黄金時代は高校生の時です。キムタクみたいにかっこよくて、とてもモテていました。中学、高校では卓球部に入っていました。意外と硬派なところもあって、試合の時に女の子がキャーキャー言っても見向きもしなかったようです。そんな思い出もあったから、出棺して葬儀場に向かう車では、少し遠回りして高校のそばを通ってもらいました。年末年始には高校時代の友人がお焼香に来てくれて、兄を偲ぶ会をやってくれたそうで、「会の間、新井がずっとそばにいるようだった」と言ってくれました。
10代20代の頃、私が夜遅くに帰ってくると、まだ兄の部屋に電気がついていてドキッとしました。兄は必ず私が帰ってくるまで起きていました。それで翌朝、「お前、昨日何時に帰ってきたんだ」と睨まれました。
私の結婚式の前日には、兄は大泣きしていました。前夜は、兄と妹と3人で写真を撮り、兄に言われて父と母に挟まれて眠りました。兄は結婚前に私の名前の通帳を作って、10万円入金されたものをくれました。結婚後に夫と喧嘩をして子どもを連れて家に帰ってきたら、兄は「うちの大事な妹をやったのに」と私以上に怒ってくれたり、夫と私が喧嘩をして私が窓ガラスを割ってしまった時には、兄が修理のお金を出してくれたりしました。妊娠して里帰り出産のために家で過ごしているときは、すっぱいものをたくさん買ってきてくれたし、いつ産気づいてもいいように自室のドアを開けて眠ってくれました。いまとなっては珍しい、お兄ちゃんらしいお兄ちゃんですよね。
末妹さん(美恵子さん):
同じ妹といえど、兄と私は6歳離れているから、兄にとってはいつまで経っても小さな妹だったのだと思います。姉のように頼られることはほとんどなく、それよりも「お前大丈夫か?」と心配されることの方が多かったように思います。母に言われて兄が嫌々勉強を教えてくれたことがありますが、「お前はほんとバカだなぁ」とずっと言われていましたが、なんだかんだ面倒を見てくれる、そんな兄です。
兄は私たちの交際関係にはうるさかったですね。家電に男の子から私宛に電話が来て、相手が名乗らないで私に代わってくれと言うと、兄はものすごく機嫌が悪くなり、「名前も言えない、お前は何様だ」と相手にキレかかっていました。
私が二十代のころ、兄と姉と3人で一緒に日の出を見に行き、私が貧血で歩けなくなって兄におんぶしてもらって山を登ったのを覚えています。その帰りに海に寄ったら、兄がウニを踏んでしまったのですが、足が痛いでしょうに、そのまま車を運転して家まで連れて帰ってくれました。3人でスキーに行ったこともあります。誘うくらいだから兄は上手いのかと思いきや、転びまくっていて笑っちゃいました。
兄は、いつも素直じゃなく、一言多いタイプです。お見舞いに行っても「ありがとう」じゃなく、「おい、水買ってきてくれよ。気が利かねぇな」などと言われました。そんな兄のへらず口がいまとなっては懐かしいです。
邦久さんのお仕事について教えてください。
長妹さん(尚子さん):
兄が一番頑張っていたもの、生涯をかけて取り組んでいたものといえば、やはり仕事だと思います。兄は大学を卒業後、一旦自動車会社に就職して、3年くらい営業をしていました。「修行してこい。車はなかなか売れないから、そこで嫌な思いをしてこい」と父に言われたそうです。実際、営業の仕事はとても大変だったようで、冬の寒い日に氷を投げつけられたり、玄関先で塩を撒かれたりしたそうです。私も兄と同じ時期に就職したから、ふたりでよく仕事の愚痴を言っていました。
父は自分が修行してこいと言ったくせに、兄の仕事が軌道に乗ってくると、家業を継がなくなることを案じたのか、「いつまでそっちにいるんだ。早く帰ってこい」と言い出しました。兄は素直に、とは言いませんが、父の言うことを聞いて、退職することになりました。兄が辞めることを聞いたあるお客さんは「お前が来るたびに名刺を置いていくから、こんな枚数になったんだぞ」と兄の名刺を扇のように広げて見せ、「最後に買ってやる」と車を1台買ってくれたそうです。そういうところに兄の人柄が現れているんじゃないかと思います。兄は25歳頃に実家に戻り、父の跡を継いで社長になりました。父は自分が立ち上げて大きくした会社だから、あれこれと口を出してきて、お互いに文句を言い合っていました。
兄にとって、仕事は生き甲斐だったのだと思います。がんと診断されてからも仕事を続けていて、具合が悪くなってきて辞める辞めると言いながらも実際に辞めるまでに5年もかかりました。まだなんとか動ける頃、2年前くらいのことですが、私の家に来て「なんか塗るもんある?いつまでできるかわかんないから」と窓枠やサッシのところにニスを綺麗に塗ってくれました。そのとき兄が使った脚立はいまもそのまま置いてあります。最後の仕事は隣のお家の塗装で、「いらない材料でやったからお金はいらないよ」と言っていました。兄は、そういうひとなんです。仕事道具を全部片付けたのは亡くなる1年前くらいのことでした。部屋からあれこれと兄が指図し、仕事道具を処分しました。いつか病気を治して仕事に復帰するという思いが、11年にも渡る闘病生活の中で兄を支えていたのだと思います。
編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月