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体験談 2025.07.17

体験談vol.16 大池きよゑさんの娘さん達<前編>

集合写真

<写真後列左>たーとす薬局 薬剤師
<写真後列中央左>かのん訪問看護ステーションとも 看護師
<写真後列中央右>むすび在宅クリニック 院長香西友佳
<写真後列右>むすび在宅クリニック 看護師
<写真前列左>三女さん
<写真前列中央>次女さん
<写真前列右>長女さん

・患者さんの病名:悪性リンパ腫(びまん性大細胞型B細胞リンパ腫)
・患者さんの年齢:88歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで1年
・訪問診療を受けた期間:5ヶ月
・家族構成:長女さんと2人暮らし。次女さん、三女さんが近隣在住。
・インタビューに答えてくださる方:長女さん、次女さん、三女さん
・インタビューの時期:逝去から約3ヶ月後
・インタビュー同席者:
 かのん訪問看護ステーションとも(看護師)
 公式サイト:https://sosen-medical.co.jp/kanon-tomo
 たーとす薬局(薬剤師)
 公式サイト:https://cmed.co.jp/tatosu/

娘さん

きよゑさんは80代後半には全然見えないシャキッとしたマダムで、娘さん達が「母はうちのボスだから」と言うくらい、家族をまとめ、引っ張っていく存在でした。料理が大好きで、一番の得意料理は紅玉のアップルパイ。毎年秋にはたくさん焼いて近所の方にも配っていたそうです。

87歳の年の12月に左下肢にひどい浮腫が出現し、年明けすぐに病院を受診して検査を受けたところ、骨盤内に直径6cmほどの大きな腫瘤が見つかり、生検で悪性リンパ腫stageⅣと診断されました。化学療法を開始しましたが効果が得られず、腫瘍は増大していきました。4月に腫瘍が神経を圧迫したことによる左下肢痛で入院し、医療用麻薬で痛みを緩和して、4月末に退院しました。しかし、退院から2週間後に肺炎で再入院し、抗菌薬で治療しました。化学療法で白血球が減少したことが肺炎の一因であり、化学療法の治療効果も乏しいことから、化学療法の継続は難しいと主治医から説明されました。腫瘍の増大のスピードを遅らせるための放射線治療を受けたのち、6月上旬に退院し、当院からの訪問診療を開始しました。

食べることが大好きなきよゑさんでしたが、入院中から食欲がなく、6月1日から嘔吐と下痢も出現し、1ヶ月で体重が3.5kgも減ってしまっていました。体力も落ちて、歩こうとすると膝が折れてしまうため、トイレに行く時には車椅子が必要でした。退院して2週間後に肺炎を再発してしまい、自宅に酸素の器械を設置し、抗菌薬で治療しました。肺炎は10日程度で落ち着きましたが、その後も1ヶ月おきに肺炎を繰り返し、8月の肺炎の時には呼吸状態がかなり悪化したため、ステロイドも開始しました。ステロイドにより食欲増進、倦怠感軽減などの効果も得られていたため、肺炎治療を終えた後もステロイドを継続しました。8月末から急に元気を取り戻し、日に日に活動量が増え、9〜10月中旬には自分でアップルパイを作ったり、ご家族と車椅子でスーパーに買い物に行ったりできるくらいに回復しました。娘さん達は「このままずっと元気でいてくれたらいいのに」と願っていました。

しかし、11月初旬から倦怠感、食欲減退などが見られ、ステロイドを増量しましたが全く効果がなく、むしろ多尿や口渇などの高血糖症状が出現しました。11月中旬からはうとうとして過ごすことが多くなりました。普段通りお話できることもあるのですが、突然きよゑさんらしくないきつい口調になることがあり、幻覚や幻聴も時々出現しました。病気の進行に伴って生じる、せん妄と呼ばれる症状です。性格が変わったようなきよゑさんの様子に、娘さん達は「もともと怒ることなんて一切ない母だったのに」とショックを受けていました。
同時に、衰弱が進み、だんだんと起き上がってポータブルトイレに座ることも難しくなりました。薬を飲むことも難しくなり、医療用麻薬の持続注射を開始しました。痛み等の苦痛は緩和できましたが、1日のうち2/3以上は眠って過ごすようになりました。長期化する在宅介護でご家族の心身の負担は大きくなっていきました。

それまでは肺炎等で状態が悪化した際にも、きよゑさん本人も娘さん達もずっと在宅療養を希望されていましたが、きよゑさんが自分の意思をはっきり伝えられない状態になってきたことや、せん妄時の別人のようなご様子を見て、ご家族は病状評価とレスパイト(介護を行っているひとが休息できるように支援すること)を兼ねた入院を希望されました。もしかしたら入院中に状態が悪化して退院できなくなるかもしれないこともお伝えし、次女さんから「私たちは十分やり切ったと思っていて、そうなったとしても後悔はありません」とはっきりご返答いただきました。11月末に緩和ケア病棟に入院しました。

入院後すぐに発熱、酸素飽和度の低下があり、昏睡状態となり、肺炎の診断で抗菌薬治療が開始になりました。CT検査では、放射線治療やステロイドの効果か、骨盤内腫瘍はかなり縮小していましたが、肺に直径5cmくらいの影が3、4個見られ、肺転移もしくは肺炎像と考えられました。徐々に呼吸状態は悪化しましたが、幸い表情は穏やかで、苦痛なく過ごされました。12月2日にお孫さんも含めたくさんのご家族に囲まれて、きよゑさんは眠るように旅立たれたそうです。

それから約3ヶ月後のある日、当院と訪問看護師、薬剤師がご自宅にお伺いして、介護を行っている間とその後のことについて娘さんたちにお話をお聞きしました。

娘さんの談笑風景

最近はどんなふうに過ごされていますか?

母の生前から月に2回くらいは実家で集まっていて、最近も同じくらいの頻度で顔を合わせています。みんな近くに住んでいるので、お土産を買ってきたとか、美味しいものを作ったとか、そういった理由で気軽に会いますね。母のことで話し合う議題があることもありますし、そうでなくても母の話題は必ず出ます。

不思議なことに、私たち3人とも母がいなくなったという感覚がないんです。長女はもともと母と2人暮らしだったから、ひとりになったというのは実感しています。でも、私たちが集まる時にはどこかに母がいるような気配がします。だから、いなくなって寂しいという感覚があまりないのです。知人にこのことを話すと、長い期間在宅介護をして一緒に過ごして、ちゃんと最期に立ち会えたから悔いがないんじゃない、と言われました。

娘さんの笑顔

きよゑさんはどんなお母さんでしたか?

母は食べることが大好きでした。小さい頃に野球のバッドが鼻に当たって嗅覚障害が残り、味覚が他のひとと違うのだと言っていました。それがなければ料理人になりたかったそうです。それでも、母の料理の腕前はすごくて、味付けがぶれていることは全くありませんでした。料理本を見ることもなく、大さじも計量カップも使わずに料理をしていました。なんで味がわかるのか聞いたら、「感覚よ」と言っていました。探究心がすごくて、ハム屋さんで売っているピクルスが美味しいとレシピを聞きに行ったり、どこかのお店の煮豆が美味しかったからと試行錯誤して味を再現したりしていました。私たちは小さい頃から母に料理を教わっていたから、母から受け継いでいるものもあるのだろうなと感じています。

思い出の味はたくさんありますが、母が毎年秋に山ほど作って近所に配っていた紅玉のアップルパイは忘れられません。母が自宅療養している間に一緒に作りましたが、こんなに面倒な工程を経て作っていたのだと驚きました。みんなに美味しいものを食べてもらいたいという気持ちが込められていたのでしょうね。母の料理で美味しくなかったものは1つも思い浮かびません。母が最後に食べたものは、緩和ケア病棟に入院する日の朝の、フルーツの盛り合わせでした。その頃にはうとうとして過ごす時間が長かったのですが、その時だけは目をカッと見開いて、自分でフォークを使って食べていました。

料理の他には、スポーツも万能でした。近所のひととバレーチームを作り、80歳近くまでやっていました。スポーツ復興への貢献で区から表彰されたこともあります。自転車は85歳になっても乗りこなしていて、どこへでも自転車で行っていました。行動力があって、パワフルな母です。

同じ母でも、姉妹3人それぞれに違う印象のところもあります。

長女さん:
私は小さい頃から母に「あなたは長女なんだから」と言われ、厳しく躾けられた記憶があります。また、長年同居していて一緒にいる時間が長かったので、些細なことで喧嘩することもありました。介護中は同居している自分がやらなければと、気持ちが張り詰めていました。いまはひとりになった寂しさと、介護をやり終えてホッとした気持ちの両方があります。位牌に向かって毎日「おはよう」「おやすみ」と挨拶し、ご飯をお供えして母に話しかけています。母は私が今まで通りに生活していることに安心しているのではないでしょうか。

次女さん:
私にとっては、母はいつでも頼れる存在でした。ちょっと話したい、愚痴を言いたいと思う時に連絡すると、母は絶対に断りませんでした。お茶やコーヒーを出してくれて、ちゃんと正面から私の話を受け止めてくれました。一通り喋り終わるとスッキリして日常に戻ることができました。実家はデトックスに来る場所で、母が悩みも不安も受け止める親友のような役割を担ってくれました。

三女さん:
私は、自身の性格もあり、母に悩みを相談することはあまりありませんでした。母はそれも見抜いていて、「そうよね、あなたは溜め込むのよね。でもたまには出しなさいね」と言ってくれました。在宅療養中、大人になって初めて母とふたりきりで丸1日過ごすようになり、母のこともよくわかるようになったし、母に自分のことも知ってもらえた気がしました。ご飯を3食母と一緒に食べることも結婚以来なかったので、こういう母との時間もいいものだなと思いました。ただ看病する時間というのではなく、母と過ごすかけがえのない時間だったのです。亡くなった後に悲しくないのは、そういう充実した時間があったからかもしれません。

むすび在宅クリニック院長・看護師

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月

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