体験談 2025.05.16
体験談vol.15 佐藤博道さんの奥さん<後編>

・患者さんの病名:口蓋がん
・患者さんの年齢:52歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで1年9ヵ月
・訪問診療を受けた期間:20日
・家族構成:奥さんと2人暮らし。アパートの大家さんの懇意で、診察は大家さん宅で実施
・インタビューに答えてくださる方:奥さんの夏子さん(44歳、ピアニスト・作曲家)
・インタビューの時期:逝去から約3ヶ月後
・インタビュー同席者:まるこ訪問看護ステーション(看護師)
目次
博道さんの最期について教えてください。
博道さんは仕事で横浜に行っている時に腹膜炎を起こしてしまい、これまで全く通院歴のない病院に救急搬送されました。しかし、幸いなことに、担当してくれた消化器外科の先生ががんの治療を専門にしている方で、博道さんの口蓋がんにもきちんと対応してくれて、毎日必ず様子を診にきてくれて、痛みもしっかりとってくれました。いい病院で診てもらえてよかったです。
腹膜炎が落ち着いてきていて、退院の目処も少したってきたかなという時に、多臓器不全を起こしてガクンと状態が崩れました。でも、彼は死ぬまで諦めていなかったと思います。危篤状態と言われてから1週間粘りました。「家に帰りたい」と彼は言い、私も少しでも容態が安定したら帰してあげたいと思いました。だから、私も諦めるつもりは全くなくて、最後まで博道さんを頑張らせてしまいました。呼吸が止まりかけたり、心電図モニターの波形がピーっと真っ直ぐになったりしても、私が博道さんの手を握りしめて「もう1回呼吸してみようか。もう1回頑張れる?」と言うと、また息を吹き返しました。「愛しているよ。もう、楽になっていいよ」とでも言ってあげたらよかったのに、絶対に私が先に手を離すわけにはいかないと思って「頑張れ」としか言えませんでした。呼吸と脈が止まった後にも、時々ぴょんと出る波形があって、まだそこに博道さんがいるのだなと感じました。私には彼が何か言ってくれているように感じました。
博道さんとの思い出で特に心に残っているのはどんなことですか?
初めて口蓋がんの手術を受けることになった時のことです。手術の後には滑舌が悪くなるだろうと医師から告げられていました。博道さんは、「なっちゃん、俺、手術で喋れなくなるかもしれないから、その前になっちゃん大好きっていっぱい言うから覚えておいてね」と言って、本当に何度も何度も大好きと言ってくれました。手術を受ける前で堪らなく不安だったでしょうに、私を想ってそう言ってくれたことに感謝しかありません。彼の声がずっと耳に残っています。
他には、晩年のやり取りがとても大切な思い出です。最後の3、4ヶ月くらいの間は医療用の麻薬も使っているし、照れる力もないから、博道さんは心の綺麗なただのピュアないいひと、ありのままの博道さんになっていました。そんな博道さんが何度も「なっちゃん、いつもありがとう」と言ってくれて、私も「せんせー(博道のあだ名)いつも頑張ってくれてありがとう」と返しました。そういう会話ができたことが愛おしいです。ずっと病院にいたら気持ちも塞いで「苦労かけてごめんね」になっていたかもしれないのですが、家でふたりで温かい時間を過ごせたから、「ありがとう」と言い合えたのではないかなと思います。ふたりきりだから、お互いに頑張らなければいけないことはたくさんありましたが、家で日常生活を送って、普通の夫婦の会話をしたという思い出が、私が生きる上で大きな力になっています。
夏子さんのいまのお気持ちを教えてください。
悲しい、つらい、寂しいなんていう次元ではないですね。この世にこんな感情が存在するのかと驚きます。この3ヶ月の間に何周もぐるぐると考え続けましたが、泣いて楽になるとか、時が解決してくれるというものでは絶対にないです。やり切ったと思っても、時間が経つにつれて、あの時ああすれば、例えば、喉が渇いたと言っていたから、飲めるうちにもっと冷たいお水をたくさん飲ませてあげればよかったとか、そういう後悔は永遠に出てくるのだろうなと思います。でも、そのときやれるだけのことはやってあげられたという思いもあるし、そうやってぐるぐる考えが巡回します。彼はやりたいことをいっぱい残して逝ったから、彼の死を無駄にしないように、彼から受け継いだものを私が形にして世に出したり、彼がやりたかったことを私が代わりにやってあげたりして、そうやって私が生きていくことで、私自身がこの気持ちを溶かしていくしかないのだろうなと思います。博道さんが私の心のなかからいなくなる、忘れるなんてことは絶対に一瞬たりともないですね。
彼がいなくなってから、正直ピアノの前に立つことすらできない時もありました。楽曲を聴くことさえつらくて、怖くてできないこともありました。手が震えてパソコンのマウスすら持てませんでした。自信がなくなって、怖くて仕方なかったです。でも、ある公演でファンの皆さんの思いや温かさを受けて、気づきました。それは、私にとって音楽=愛だということです。つまり、音楽=ピアノを弾く=楽曲=博道さんへの気持ちと感謝、いろんな方への感謝だということです。そう思うと、鍵盤の1つ1つ、音色の1つ1つが愛おしくてたまらなくなりました。その音色は博道さんへの「大好きだよ。これからもずっと一緒だよ。ありがとう」というメッセージなのです。だからいまは、音楽を奏でている時、音楽に接している時が、1番深く博道さんとつながっていられると感じられるようになりました。
彼が好きだったものや食べたかったもの、やりたかっただろうことに遭遇するときに、胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じます。彼が好きだったハンバーグやエビフライ、ナポリタンなどを詰め込んだお弁当を作ったり、食べたかったトンカツやケンタッキーを買ってきたりしてお供えしています。冷たいものがずっと飲みたかったから、氷を入れた水もお供えして、氷が溶けたら交換しています。自己満足かもしれないけれど、私がそうしてあげたいから、やっています。
博道さんのことを考えない時間はないです。最近は仕事に没頭しているときは片隅の方に寄っているけれど、常に心のなかに博道さんがいます。ひとりでうちにいるときや何もしていないときは、博道さんのことばかりを考えています。気づいたら話しかけていて、あの時ああしていればと考えだすと、涙が出てきます。泣き明かしているわけではないですが、ひとの優しさに触れた時や、博道さんの思い出に触れた時にも涙が出ますね。1日1回は泣いています。心のなかの博道さんはいつも笑顔です。闘病中でもおもしろいひと、ひとを楽しませようとしてくれるひとでした。博道さんを知っているひとはみんな、笑っている顔しか思い浮かばないと言ってくれるから、それが嬉しいです。
ふたりで過ごした時間は10年だけでしたが、その10年で博道さんは一生分私を愛してくれました。私が一生かけて博道さんを愛しても、彼がくれた夏子愛には敵わないと思います。私は自分の残りの人生も博道さんを愛し続けたいです。
博道さんがやり残したことはどんなことでしょうか?
博道さんはやりたいことがすごくたくさんある方でした。いまも、道半ばでと、とても無念に思っていると思います。
一番は、仕事のことだと思います。作りかけの曲がすごくたくさん残っています。私と博道さんのふたりに依頼された仕事で、いまは私ひとりで周囲の協力も得ながらなんとか頑張って、アレンジもして仕上げています。博道さんにしかできないこと、ふたりでしか作れない曲はあるけれど、10年で博道さんから教えられたことを生かして、博道さんに恥じないように頑張っていきます。彼の役割だったアレンジをしながら、いかに彼を頼りにしていたかを日々感じています。他に博道さんがやりたかったことと言えば、一緒に作った曲のライブもやりたかっただろうし、買ったばかりのギターやベースを思い切り弾きまくりたかっただろうし、やはりもっとふたりの音楽を残したかったのだろうと思います。
行きたいところはいっぱい語ってくれました。彼は北海道出身で、特に生まれ育った地域は、人間より牛の数が多くて、ものすごく雪が降る土地だそうです。実家の蕎麦屋に連れて行きたいと言ってくれましたが、仕事の都合でなかなか休みが取れず、行けませんでした。行きたいところの話をしていて、だんだん「行きたかったな」と過去形で語るようになっていったのが、苦しかったです。
博道さんはお酒も好きだけど、それ以上に飲みの場の雰囲気が好きで、沼袋の飲食店を盛り上げたいという思いがあってよく飲み歩いていたから、この界隈では有名でした。なかなか豪快にお金を使ってくるひとで、一緒に飲んでいる方や店員さんの方が「これ以上使ったらなっちゃんに怒られるよ」と止めてくれていました。亡くなった後にも飲み屋のツケが出てきて笑えました。彼らしいなと。博道さんがいなくなってから、博道さんが夜中まで入り浸っていたお店に、たまにひとりで飲みに行っています。彼もきっと私にも沼袋を盛り上げていって欲しいと思っていると思います。
博道さんが作り上げてきた人間関係も大切にしていきたいです。仕事関係の方も、沼袋の方も、彼の友人たちも。彼は交流関係がものすごく広く、周りにはいい方ばかりです。病院にはたくさんの友人が見舞いに来てくれて、家族以外面会禁止だったのですが、友人のことを親戚だと言ったら、病院の方々も薄々わかっていたと思いますが、面会を許可してくれました。いま住んでいるアパートの大家さんは、博道さんのことを息子のように思ってくれて、ベッドや祭壇を置く場所も提供してくれているし、いまは一緒に博道さんのことを語って過ごしています。博道さんと私がいろんなひとに受けた恩を返していくことも私の使命だと思っています。
お金のことはともかく、博道さんはきっちりしている性格なのです。だから、亡くなった後のことを色々決めずに逝ってしまったことも悔やんでいると思います。でも、「俺がいなくなったら」という話は時々していたし、博道さんがどうして欲しいかということはわかるし、いまも、彼だったらどうしたいだろうかと語りかけたら答えてくれる気がしているので、その通りにしてあげようと思っています。
訪問診療と訪問看護にメリットはありましたか?
博道さんは、やりたいことがたくさんあって、1日でも長く生きたかったから、やれる治療は全部やりました。まだまだ頑張りたいと思っているときに、これ以上治療できないとがん拠点病院の主治医に告げられたときは博道さんも私もどうしていいかわからず、それでもまだ諦めてはいませんでした。抗がん治療を終えたら病院への通院を継続することはできないと主治医に言われ、ホスピスと訪問診療の2つを提案されました。ホスピスに面談に行ったのですが、ホスピスでは輸血や止血などの処置はできず、苦痛をとって残りの時間を過ごすための場所だと説明され、私たちが求めているものとは全く違うと感じました。私たちは輸血や止血ももちろんして欲しいし、可能な限り延命をして欲しかったのです。数カ所の訪問診療のクリニックを病院から案内され、そのなかからふたりでむすび在宅クリニックを選びました。輸血ができて、在宅緩和ケアを謳っているクリニックが他に見つからなかったし、時間的にも余裕はなかったので、WEBサイトを見て決めました。
実際に訪問診療と訪問看護を開始してみて、病院との違いに驚きました。病院に入院していると24時間看護師さんが看病してくれるから安心なのですが、毎日面会に行っても病状についてイマイチよくわからないし、本人にも家族に対しても精神的なケアはあまり受けられなかったように思います。入院中も外来通院中も、病院の医師や看護師には病気のこと以外は話しにくいなと感じます。必要最低限だけの会話で、精神的に寄りかかれるような状況ではありませんでした。
訪問診療を受けて、24時間対応と聞いても、まさか自分たちが本当に深夜に連絡することになるとは思っていませんでした。急に鼻血が止まらなくなった時に看護師さんに連絡したら、先生と看護師さんと薬剤師さんが来てくれて、みんなで協力して止血剤を点滴したり、ガーゼを鼻に入れたりして止血してくれて、止まった後でみんなでお祭りみたいに騒いだのはいい思い出です。すごくアットホームで、病院のピリピリした雰囲気とは全然違いました。病院の救急外来だと、私は別室で何時間も待たされてどうなっているのかわからないので、そういうふうにみんなで力を合わせて頑張って治療して、うまくいったことをみんなで喜べるっていうのが、本当に良かったです。家でふたりで過ごした時間はとても大事な、かけがえのないもので、その時間が作れた背景には訪問看護師さんや先生が精神的に支えてくれた、というのが大きいと思います。
また、県外でレコーディングなどしているときに出血した場合に備えて、博道さん救出セットを作ってもらいましたが、それも役立ちました。写真付きの説明書をいただいて、それに沿ってやったら、うまく止血できました。
がん闘病中で、訪問診療や在宅緩和ケアを検討されている方にアドバイスをお願いします。
私たちは在宅療養を選んで本当に良かったと思っています。患者さんの個々の病状や家庭事情にもよるので、全員に在宅療養をお勧めできるわけではありませんが、私たちは訪問診療や訪問看護を受けたから、夫婦ふたりの大切な時間を持てました。いつでも看護師さんや先生に連絡できる、何かあったら助けてくれるというのは本当に安心です。博道さんは本当は最期も家で過ごしたかったのだと思います。それが果たせなかったことは残念ですが、一時でも家で過ごせたことが救いです。みなさんがこれからのことを決めるときは、患者さん本人の意思をまず確認して、できる範囲でそれを叶えてあげることが大事だと思います。
編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月