MENU

体験談 2025.04.14

体験談vol.12 田中雅子さんの長女さん<前編>

病室での4人の写真

<写真中央> 田中雅子さん
<写真左> むすび在宅クリニック看護師
<写真奥中央> 田中雅子さんの長女さん
<写真右> むすび在宅クリニック 院長:香西友佳(こうざいゆか)

・患者さんの病名:緑内障による全盲、加齢性難聴、コロナ罹患後の廃用症候群
・患者さんの年齢:100歳
・訪問診療を受けている期間:1年6ヶ月
・家族構成:独居だが、長女さんと長男さんが交代で泊まる
・インタビューに答えてくださる方:長女さん(74歳、専業主婦)
・インタビューの時期:訪問診療開始から1年6ヶ月後

話をする女性

田中雅子さんはなんと100歳。戦争を経験している、強く逞しい世代の女性です。57歳の時に胆石胆嚢炎で胆嚢破裂を経験し、63歳の時に胃がんで胃の半分以上を切除し、81歳の時に回盲部炎で大腸の一部を切除し、90歳の時にも内視鏡で腸ポリープを切除しており、病気や手術は数多経験してきました。それだけでなく、80歳の時に両目の緑内障を発症し、徐々に悪化して85歳頃には全盲になりました。また、98歳ごろから加齢性の難聴も進行し、100歳になる現在では耳元で大きな声で話しかけるとかろうじて聞こえる程度になっています。

目も見えず、耳も聞こえにくい状態でしたが、98歳の秋までは自分で食事を取り、ひとりでトイレに行き、長女さんと一緒に近くの病院に通院することもできていました。しかし、98歳の秋にコロナに罹患してから急激に全身状態が悪化し、食事がほとんど取れなくなり、トイレに行くのにも長女さんの腰に捕まってふらふらしながらなんとか歩く状態になりました。長女さんはコロナが治れば回復するかと様子を見ていたのですが、10日ほど経っても微熱が続いたため、コロナ発症の11日目に当院からの訪問診療を開始しました。

話を聞く女性

驚いたことに、雅子さんは大病を数多く経験していても、高血圧症や糖尿病などの慢性疾患には罹患したことがなく、常用薬は1種類も飲んでいませんでした。98歳で全く薬を飲んでいない方は日本ではかなり稀です。すごいことです。
採血をして炎症反応の上昇がないことを確認し、熱はピーク時よりは下がってきていたため、様子を見ることとしました。栄養不足で口腔・口唇にカンジダ症を発症しており、その痛みのせいで食事が欲しくないと予想されましたので、訪問歯科に口腔ケアを依頼し、抗真菌薬の塗り薬を使って治療しました。コロナ罹患同時期に、夜間頻尿が始まり、1〜2時間おきのトイレが続いていましたが、眠剤やせん妄の薬、過活動膀胱の薬を使っても効果がなく、薬をあまり飲ませたくないという長女さんのお気持ちも尊重して、薬を使わずに様子を見ることになりました。

その後2ヶ月の間は37.5度くらいまでの微熱が週に何度か出現しましたが、雅子さんの体調は徐々に回復し、だんだんと食事が取れるようになっていきました。それでも、コロナ罹患前の状態には回復せず、食事はスプーンで口に運んであげる必要があり、トイレには手引き歩行か、ご家族の腰に捕まって歩いて行く状態が現在まで続いています。食事の時以外は、ほとんどの時間をベッドに横になって過ごしています。
訪問診療開始からの1年半の間に、転倒して足の皮膚が15cmも裂けてしまったり、ひどい魚の目で歩きにくくなったり、肺炎や尿路感染にかかったりしましたが、どれも治療すれば時間がかかっても治りました。雅子さんは無事100歳のお誕生日を迎え、現在も、長女さんと長男さんに見守られながら、お家での生活を続けています。

春麗らかな3月のある日に、雅子さんの長女さんに、雅子さんの人生と介護とこれからのことについてインタビューさせていただきました。

ベットで眠る女性

雅子さんの生い立ちについて教えてください。

母は貧乏寺の生まれで、8人きょうだいの三女で下に妹と弟がいました。母の母は41歳くらいで亡くなったそうで、きょうだいが親代わりだったようです。上のきょうだい同様、母も10歳離れた末の弟のことはいつも気にかけていて、いまでも弟と自分の息子のことが母にとって1番の気掛かりのようですね。

農地開放制度で寺の中で耕作をするのが禁じられて、お寺にお布施以外の現金収入が入らなくなった時代だったので、いつも飢えていたと聞いています。そんな状況で、多くのきょうだいと共に育って、戦争も経験しているから、母は強いですよ。生き抜く力があって、我慢強くて、ひとから頼られる、逞しい女性ですね。体も丈夫でした。田舎だから小学校まで一里もあって毎日それを往復していたのだから、健脚になりますよね。私が子どもの頃もどこへ行くのでも歩いて行っていましたよ。母を見ていると、やっぱり歩くって大事なんだなと思いました。

高等小学校を卒業後は電機メーカーで使用済みの電球を破って、中にあるフィラメントを取り出す仕事をしていたらしいです。でも、そんなことやってちゃダメだと思ってすぐにやめて、そのあとは大学病院で看護助手として働きました。本当は看護学校に行きたかったみたいなんですが、お金がなくて行けなかったのです。その頃の話は母からよく聞きました。お湯を張った洗面器に患者さんのお尻を浸けてサナダムシが出てくるのをじーっと待つ役目をさせられたとか。お腹が空いて同期の友達と厨房に忍び込んで食べ物を物色していたら、調理師さんに見つかって、友達が窓から逃げようとして外にあった味噌樽の蓋の上に飛び乗ったら、蓋が外れて全身味噌まみれになったとか。道徳観とかはなくて、尊敬できるところはさらさらありませんが、とにかくがむしゃらに生きてきたんですね。

父も寺の産まれですが、長男じゃないから家を継ぐことはなく、母と結婚してからもいろんな仕事を転々としていました。自動車免許を持っていたから運転の仕事が多かったようです。私が小学1年生の時にいま実家がある場所に越してきて、母はそれからずっとここに住んでいます。母がいろんな内職をやっていた姿をよく覚えています。双眼鏡の周りにビニールを貼ったり、近所の主婦総出で本を箱に詰めたりしていました。いまと違ってなんでも手作業で、人海戦術でやっていました。家事だって、コンロは1つで、洗濯機もないし、掃除機もないし、全部手でやるしかない時代です。母は綺麗好きで寺育ちだから拭き掃除が得意で、目が見えなくなってからも90代まで床に四つ這いになって拭き掃除をしていました。あっちへこつん、こっちへこつんとしながらもね。

母のきょうだいはもうみんな亡くなっています。母の父は長生きで95歳くらいまで生きました。最近親戚が来てくれた時に母を見て、お父さんそっくりになってきたね、と言われました。母はそれなりに認知症が進んでいます。耳も聞こえない、目も見えないから、情報が入らなくて自分の世界で過ごすようになるのはしょうがないですね。子どもに戻って「母ちゃん!母ちゃん!」と呼ぶこともあれば、主婦の記憶が蘇って「早く米を研いでおかないと」と言い出すこともあります。母の中では末の弟も生きているし、息子はまだ小さい子どものようですね。

介護の様子

雅子さんのご主人はいつ頃どんなふうにお亡くなりになったのですか?

父と母は4歳差で、父は88歳で亡くなりました。母は任意ワクチンを毎年きっちり打っていたのですが、父は全く打っていなくて、その年は何の気まぐれか、新型インフルエンザワクチンを打つ気になったようです。午前中にワクチンを打って、その日の午後に眼科を受診しようとひとりで歩いて出かけたのですが、眼科の少し手前で倒れているところを近所のひとに発見されました。心肺停止状態でしたが、病院で一度心拍再開し、すぐにまた止まってその日のうちに亡くなりました。ワクチンとの因果関係はわかりませんが、そんなことがあったものですから、それ以来母も私もワクチンは一切打っていません。当時は、90歳までもう少しだったのになと残念に思いましたが、いまはその最期は父にとって楽でよかったんじゃないかなと思うようになりました。ピンピンコロリが一番いいですよね。父と母の関係はまぁ、普通の夫婦だったんじゃないでしょうか。いまとなっては父のことを母が口にすることはないですね。

話を聞く女性

雅子さんの介護生活はいつから、どんなふうに始まったのですか?

母は80歳頃に緑内障にかかって片目を失明しましたが、その後も数年は片目が見えたので、シルバーカーを押して自分で買い物に行っていました。私は川崎から日帰りで母の様子を見に来ていたのですが、介護と言っても買い物の手伝いをするくらいでした。85歳前後からだんだん歩けなくなってきて、シルバーカーだと座れないので、車椅子を借りました。でも、ずっと車椅子で移動していると歩けなくなりそうだから、歩けるところまでは母に車椅子を押して歩いてもらいました。その際に誰も乗っていない車椅子だと軽すぎて安定感がないので、私が車椅子に座って、それを母が押していました。はたから見るとおかしいですよね。恥ずかしいので、「私は錘なのです」と自分から言って回っていました。

母の家から自分の家に帰る途中で救急車の音が聞こえると、母に何かあったのではないかと不安になりました。母の衰弱が進むにつれて不安も大きくなり、少しずつ来る頻度が増えていって、母が90歳の時に下血で入院して内視鏡手術を受けた後から、私の弟と交代で母のところに泊まり込むようになりました。

難聴が悪化したのは、コロナになる少し前、98歳になったくらいからです。初めは耳垢でも溜まっているのかと思いましたが、耳掃除をしても全然変わらなくて。目が見えないのは本人が大変ですが、耳が聞こえないのは家族が大変だなとつくづく思います。聞こえないと脳に刺激が入らなくて、どんどん認知症が進行します。でも、聞こえないこともデメリットばかりではないですね。この付近はよく道路工事をやっているのですが、工事の音がガンガン鳴っていても「今日は静かだねぇ」なんて言っています。歳をとって無くすものもあるけれど、得るものもあるのかなと思います。とは言いつつ、なんとか意思疎通が図れるといいんですけどね。いつも私が耳元で「立って!」などと怒鳴っています。

98歳の秋にコロナにかかるまでは母は自分でトイレに行き、食事も食べていました。目も見えないし、耳も聞こえないから、壁をコンコン叩きながら移動するので、騒々しかったですよ。でも、母はなんでも自分でしようとするひとで、それはいまでもそうですが、自ら動こうとしてくれるので、介護する側の負担が少なくて助かります。母は運動神経もいいですしね。

コロナになってから本格的な介護が始まりました。食事は柔らかくペースト状にした物を作らないといけないし、食べさせようとしても座っていることに疲れて数口目には「もういらない」と言い出しますが、スプーンを口元に持っていけば、母は口を開いてくれます。もともと、食べることに貪欲だから、食べ物は粗末にしません。夕方から深夜2時くらいまでの間は20分から1時間おきにトイレに行きたいと言い、私の腰を掴んで電車ごっこみたいにして歩いていきます。コロナにかかる前は頻尿じゃなく、ここまで昼夜問わずトイレトイレになったのはここ数ヶ月のことですね。それでも、一時期すごく体調が悪かった時以外は失禁はないです。

対談をする3人

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月

トップ/スペシャルコンテンツ/体験談/体験談vol.12 田中雅子さんの長女さん<前編>