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コラム 2023.03.02

死について考える1章
−自分のこれから、大切なひとのこれからが気になる方へ−

死について考える 1章

死とは何か

多くの日本人にとってこの問いは少し身構えてしまうものかもしれません。宗教に関する話なのではないかという懸念を抱かせたり、「縁起でもないこと」をあまり考えたくないといった思いが背景にあったりするためでしょう。今回は宗教的にではなく、医学的に死について考えていきます。

死の三徴候とは、心停止、呼吸停止、瞳孔散大・対光反射消失の3つのことで、医師はこの3つを確認して、死亡診断を行います。死亡診断は医師にしかできない行為です。

具体的な評価の方法としては、聴診器を胸に当てて鼓動や呼吸音の有無を5〜10秒ほど確認し、目を見て瞳孔が開いているか、ペンライトで目に光を入れた時に瞳孔がキュッと小さくなる対光反射が起きるかどうかを見ます。対光反射がないということは、脳幹と呼ばれる意識がなくてもオートモードで作動するはずの、生命維持のために働いている脳の中枢が機能を停止していることを意味します。ちなみに、脳死は脳幹を含めた脳全体の機能が不可逆的に失われた状態なので対光反射はなく、植物状態では脳幹機能は残存しているため対光反射があり、自分で呼吸をすることもできます。

医学的にはこのように、体が働きを止めることを死と診断しますが、肉体の死=生命の終わりなのか、魂は存在するのか、死んだ後にはどうなるのかは、紀元前からずっと議論され研究され続けていることですが、まだ明らかになっていません。

私自身も、「死とは何か」という問いに自分なりの結論がまだ出ていないのですが、死生観は生き方を考える上でも重要ですし、終末期に関わらせていただいた患者さんの何人かが、これから待ち受けることに対してご自身なりの見解を自発的に語られるのをお聞きしていると、自分で考えて答えを見出すことは、それに立ち向かう者の心構えとして必要なことなのかなと感じます。亡くなる前に心穏やかにいられるかどうかは、死を受容できているかどうかが関連しているとの報告もありますが¹、受容しようとしてできるものではないし、「死にたくない」というお気持ちを医療者には隠さず吐き出してください。自分の中に悩みや感情を閉じ込めておく方が、おつらいのかなと思います。

「やり残したことがあるのに悔しい」「子どもの成長を見たかった」「ずっと懸命に働いてきて、やっとこれからという時にどうして自分が」「先に逝った妻に会うのが楽しみだ。早いって怒られるかな」「やるべきことは全部やったし、託すことは息子に託したから、もう思い残すことはない」「先生、50年後に待ってるからね」
これらのお言葉を遺されたどの患者さんのお顔も、ずっと胸に残っています。

医師はどんな気持ちで臨終に立ち会っているのか

医師はいつも冷静沈着に見えるかもしれませんが、何度経験しても、ひとが死ぬことに慣れることはないと感じます。張り詰めた空気のなかで、つい先程まで息をしていた患者さんと対面して拝顔する時、患者さんは苦しくなかっただろうか、心残りはないだろうか、ご家族にどうお声掛けしようか、と色々な考え事が頭の中をぐるぐるしています。また、「死とは何か」をいつも考えさせられます。同時に、救急外来などで出会う急性の経過の患者さんの時には、救命できなかったことを無念に思い、ご家族への申し訳なさでいっぱいです。

医師もただのひとりの人間です。患者さんの死という大きな出来事を前にして、たくさん考えます。たくさん反省します。なにか特別なことを考えているわけではありません。

患者さんが旅立たったら医師の仕事は終わりというものではなく、ご家族のケアまで含めて行うのが、医療の本来あるべき姿だと思います。今の保険医療制度では、グリーフケア(何か大切なものを失ったことによる悲嘆のケア)は精神科標榜の医療機関以外では保険適応外になってしまいますが、できるだけ、患者さんのことをよく知る主治医として、その後もご家族と患者さんのことをたくさん話して、共有して、ご家族の人生を見届けたいです。

執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳


¹Hiratsuka Y, et al. Palliat Med 2021; 35:1564-1577.

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