体験談 2025.05.16
体験談vol.15 佐藤博道さんの奥さん<前編>

<写真左> まるこ訪問看護ステーション 看護師
<写真中央左> 佐藤博道さんの奥さん
<写真中央右> むすび在宅クリニック 院長:香西友佳(こうざいゆか)
<写真右> むすび在宅クリニック看護師
・患者さんの病名:口蓋がん
・患者さんの年齢:52歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで1年9ヵ月
・訪問診療を受けた期間:20日
・家族構成:奥さんと2人暮らし。アパートの大家さんの懇意で、診察は大家さん宅で実施
・インタビューに答えてくださる方:奥さんの夏子さん(44歳、ピアニスト・作曲家)
・インタビューの時期:逝去から約3ヶ月後
・インタビュー同席者:まるこ訪問看護ステーション(看護師)
公式サイト:https://maruco-hvst.jp
佐藤博道さんはギタリスト・編曲家(アレンジャー)で、音楽イベントのプロデュースも行います。ピアニストの夏子さんとふたりで曲を作ったり、ステージに立ったりすることもありました。誰に対しても優しく、ひとを楽しませるのが大好きな博道さんは、近所の居酒屋でも人気者でした。飲みに行っていつまでも帰って来ない博道さんを夏子さんが迎えに行くと、ベロベロに酔った博道さんを囲んでどんちゃん騒ぎが始まっていて、しょうがないなあと思いつつも、夏子さんもなんだか楽しくなってしまって、朝まで一緒に飲んでいるようなことも度々ありました。
50歳の年の3月に上前歯のあたりの歯茎の腫れを自覚し、精査の結果、口蓋がんと診断されました。口蓋とは鼻腔と口腔を分ける口腔上壁のことで、口を開けた時に上歯列の奥に見える、いわゆる上あごの部分です(上顎(じょうがく)と書くと医学的には少し範囲が異なります)。画像検査では、がんは口蓋から鼻腔、上顎洞に進展していましたが、遠隔転移はなく、6月に口蓋亜全摘、腓骨皮弁による再建術※1を受けました。その後、11月に再発が見つかり、放射線治療と化学療法を受けましたが、翌年の8月ごろから右頬の痛みを自覚するようになり、局所再発と診断され、同時に肺転移が見つかりました。医療用麻薬と免疫チェックポイント阻害薬を開始しましたが、薬の副作用で発熱し、入退院を繰り返しました。10月中旬のCTで局所再発の増悪、多発骨転移の出現、縦隔リンパ節の増大を認め、主治医から抗がん治療の中止を伝えられました。10月末に自宅退院し、当院からの訪問診療を開始しました。
その時点での症状としては、構音障害、嚥下障害、腫瘍からの持続的な出血(右上顎洞から口腔内と鼻腔へ)、傾眠、右頬と左腰部の痛み、全身掻痒感、複視があり、生活にも仕事にも大きな支障をきたしていました。痛みに対しては医療用麻薬が多少は効果があるものの、十分とは言えない状況でした。また、入院中に仕事が滞ってしまい、納期が迫っていることで焦りもありました。職場や周囲の環境に助けられつつ仕事に励みながら、自宅で輸血を行ったり、大量に出血した際にはガーゼ圧迫と止血剤の注射で止血したりしました。博道さんは手術で口蓋を切除しているため、上の歯や歯肉がない状態でしたが、「とんかつをバリっと噛んで食べたいんだよね」と希望し、歯茎が無くても装着できる義歯を作ってみようと近所の歯科医が言ってくれたことで、義歯の作成も始まった矢先でした。痛みは少しずつ強くなり、眠気が出過ぎないように注意しながら、医療用麻薬を少しずつ増やしました。
仕事で横浜に滞在中の11月18日早朝に急激な腹痛を自覚し、近隣の病院に搬送されました。腹膜炎と診断され、抗菌薬で治療を受けました。がんとの関連ははっきりしなかったものの、がんの進行による免疫力の低下は要因のひとつと考えられました。また、右上顎洞からの出血も続いており、貧血に対する輸血を行われました。一時容態は安定したものの、12月に入ってすぐに多臓器不全を発症し、それから約1週間後の12月7日に病院でお亡くなりになりました。病院には連日たくさんの方がお見舞いに来られ、最期は奥さん、お母さん、ご友人がそばにいたそうです。脈がゆっくりになっても何度も復活し、最期の最期まで頑張って呼吸して、生きようとされていたそうです。
葬儀までの1週間は、博道さんを大家さん宅に連れ帰り、彼はきっとしんみりするのは望まないだろうという夏子さんの希望で、弔問客と賑やかに宴会をして過ごされました。12月10日にお焼香に伺った時には、博道さんは穏やかな表情で、いまにも目を開け、声が聞こえてきそうでした。
博道さんのご逝去から約3ヶ月後のある日、当院と訪問看護ステーションがご自宅を訪問し、奥さんに闘病期間といまのお気持ちについて語っていただきました。
※1 切除した部分を自家組織や人工物で補って元の見た目や機能に近づけることを再建と言います。腓骨皮弁とは、下腿の2本の骨のうちの1本である腓骨およびその部位の皮膚、血管などを、補いたい部位のサイズに合わせて切り出したものです。腓骨はなくても歩行はできるのと、サイズ感がちょうど良いので、顎周辺の再建には腓骨皮弁が比較的よく用いられます。
博道さんはどんな方ですか?
思いやりと優しさの塊のようなひとです。普段は荷物を持ってくれるとか、車道側を歩いてくれるというような、あからさまな気の利かせ方はしないのですが、いざという時は必ず助けてくれるひとです。本当の優しさってこういうことなんだろうなと思いました。また、ひとを楽しませることが大好きな、大人だけど少年の心を忘れないひとでもあり、思わぬところでたくさん笑わせてくれました。音楽関係のイベントの主催もよくやっていて、私がピアニストとして呼ばれて行ったのが、私と博道さんの出会いでした。10年前、私が34歳で彼が42歳の時の話です。その後、なんとなく一緒に過ごすようになり、公私共に一緒にいることが当たり前になりました。恋人を通り越して、いきなり家族になったような感じでした。
知り合って5年ほど経った時に、一応プロポーズのようなものをされました。横浜のおでん屋さんで私ががんもを食べている時のことでした。博道さんに「お前の人生の底はなんだ?」と聞かれました。彼が言う底とは、これがなければ生きて行かれないという最低限のもののことです。私が考えている間に博道さんは「俺の底は、お前がいないことだ」と言ってくれました。すごく照れ屋なひとですが、私のことが何よりも一番大事だということは、その後もずっと態度で示してくれました。
ふたりで築いてきたものについて教えてください。
私の旧姓は中村夏子で、博道さんは私の旧姓からとって中村博道という芸名で活動していました。ふたりで音楽を作るときは、まず私が作詞作曲をして、それに博道さんがアレンジを加えていました。アレンジとは、私が作ったピアノだけのシンプルなメロディと歌詞にドラムやギターなどの様々な楽器を付け足し、1つの曲を編集し、より良いものに仕上げていくことを言います。同時進行でやっていくこともありますが、基本的には私の作詞作曲が完成してから彼に引き渡す形になります。博道さんのアレンジはいつも私が描いた伝えたい世界のその先を見せてくれました。それが当たり前になっていたから、予想と違う展開だったときにはめちゃくちゃ喧嘩して、懇々と話し合いました。しかし、どんな時も博道さんは「お前がやりたいことはなんだ」と、私がやりたいことをちゃんと突き詰めて聞こうとしてくれました。絶対に妥協せず、最後まで付き合ってくれました。言葉では伝えられない、私の想いをわかってくれるひとでした。一番の理解者でした。そんなひとに人生で巡り会えたことは、本当に幸せで、奇跡のようなことだと思っています。
闘病中の博道さんに夏子さんはどんなふうに接していたのですか?
闘病中、彼が感じていた苦痛はかなりのものだったと思います。でも、周りを気遣ってなのか、いつもニコニコあっけらかんとしていました。ただ、私に対しては素直に弱音を吐いてくれていたように思います。閉所恐怖症でMRIが撮れなかったと泣きながら検査室を出てきたときには、「よし、帰ろう」と言って連れ帰りました。余命3ヶ月と病院で言われて「俺、どうしよう」と泣いていたときには、彼の手を握りしめて「大丈夫だから落ち着け」と声をかけました。常に頑張っている彼が耐えられなくなった時こそ、私がどんと構えて気丈に振る舞わなければ、ふたりの笑顔を守らなければいけないと思いました。看病することやそばにいることが大変だと思ったことは一度もなくて、博道さんが苦しんだり、つらそうにしたりしていることが、私にとって一番の苦痛でした。何もできなくてもどかしかった時もありましたが、私がそばにいたことが、博道さんにとって支えになってくれていたらいいなと思います。
ステージに立つ仕事で、顔の病気だから、本人は本当につらかったと思います。たまに、「みんな、俺のこと好奇の目で見ていないか?」と聞かれましたが、「見ていないよ!もしそんなことがあっても私がいるからそんなの気にしなくていい」と伝えました。彼の周りのひとはいいひとばかりで、ちゃんと病気のことも理解して配慮してくれて、衣装は出血しても上手くカバーできるようなものを用意してくれました。博道さんが急に出演できなくなっても、穴を埋めてくれて、彼の体調に合わせて予定を調整してくれました。ステージの直前に鼻血が出た時は「俺、出られないの?」と子どもみたいな声で呟くから、「出られるよ!出てくれないとみんな待っているよ!」と声をかけました。
博道さんは、晩年でもお酒を飲んでいたし、生牡蠣も食べていました。病院の主治医に相談したらもちろんダメと言われることはわかっていましたが、うまく咀嚼できず、出血が絶えず喉の奥に垂れ込んでいてすごく不快な状況でも、せめて好きなものを好きなだけ食べさせてあげたかったのです。食べること、美味しいと思うことを奪うのって、とても悲しいことだと思います。手術をして、噛めない状態になってからも、どうすれば食べられるのか考えて、なんとか工夫して食べることを試みました。カロリーを摂取するために胃瘻からの経管栄養も使用していましたが、食べることはギリギリまで諦めませんでした。
博道さんが自分でやろうとしていることはできるだけ尊重しました。薬の管理も自分でやろうとして、お薬カレンダーに仕分けするのですが、麻薬で意識が朦朧としているから間違っていることが多くて、私がWチェックして直していました。「もう、また違うよ!」って笑ったら、博道さんは本気で驚いて「嘘だぁ」なんて言って、そういう些細なやり取りが愛おしいです。そういうなんでもない思い出が、ふたりで闘病した記憶として、私の支えになっています。
録音中に鼻血が出たときには、私がピンセットで彼の鼻の穴にガーゼを詰め込みながら、レコーディングを続けました。出血多量で朦朧としていて、血圧も下がっていてすぐに輸血が必要なほどの状態だったのに、それでも諦めませんでした。ライブ中に鼻血が出たときには、上手く弾けなかったと悔し涙を流していましたが、普通だったら動くはずのない体で、限界の向こう側まで動いていました。最後まで笑顔で弾き切り、その日の夜中に救急車で病院に搬送されました。博道さんのもっと弾きたい、もっと生きたいという思いが、強く伝わってきていたから、それをできる限り支えたいと思っていました。
実は私も白血病で闘病中です。現在は化学療法が効いて寛解していますが、完治はしない病気だと聞いています。数年前、まだ博道さんが口蓋がんと診断されるより前の発症でした。肝臓や脾臓が腫れてお腹がパンパンになり、とてもつらかったとき、博道さんが特に何をしてくれたわけでもなかったですが、そばにいてくれたのがとても大きかったです。私の病室の目の前の、半分見えちゃうところで泣き崩れていたので、見えないところでやれよ、とは思いましたが、彼の気持ちは伝わりました。私が一番大変なときを支えてくれたから、私も同じことを返さなきゃと思いました。
編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月