体験談 2025.02.18
体験談vol.8 河上和子さんのご主人(前編)

<写真中央> 河上和子さんのご主人
<写真右> むすび在宅クリニック 院長:香西友佳(こうざいゆか)
<写真左> むすび在宅クリニック看護師
・患者さんの病名:中咽頭がん
・患者さんの年齢:71歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで4年2ヶ月
・訪問診療を受けた期間:約2ヶ月
・家族構成:ご主人と2人暮らし
・インタビューに答えてくださる方:ご主人(77歳)
・インタビューの時期:逝去から約8ヶ月後
和子さんは6歳年上のご主人と2人暮らし。両親は他界し、近所付き合いもほとんどなく、ご主人が定年退職されてからは2人で過ごすことが多かったそうです。和子さんは人付き合いが苦手でしたが、ご主人にだけは気を許していて、そのぶんわがままも言えるようでした。食べることが大好きで、テレビや雑誌で美味しそうな食べ物を見つけてはご主人と一緒に日本全国どこへでも出掛けていました。特に道の駅が好きで、旅行の途中に必ず寄っていました。
2019年12月に歯科で咽頭腫瘤を指摘され、精査の結果、中咽頭がん、肺転移と診断されました。実は数ヶ月前からのどに違和感があったのですが、病院嫌いの和子さんはご主人には言わずに我慢していたそうです。主治医から手術を勧められましたが、手術の影響で普通のご飯は食べられなくなるかもしれないという説明を受けて、和子さんは頑なに手術を拒否しました。翌年5月に進行を遅らせるための放射線治療を行い、食べられなくなった時のために胃ろう(左上腹部に穴を開けて直接胃に繋がるチューブを通したもの。口から食べられなくても、そこから栄養や薬を入れることができる)を造設しました。8月には肺転移が増悪し、肝転移も出現していましたが、和子さんはやはり抗がん治療は希望されませんでした。2023年11月に肝転移に起因する胆管炎で入院し、抗菌薬やステント治療の後に、肝転移に対して放射線治療を受けました。約1ヶ月後に退院され、当院からの訪問診療を開始しました。
その時点で、咽頭がん原発巣の増大により舌が浮腫んで呂律が回らず、咀嚼もうまくできず、素麺やスープ、舌で潰せる程度のものをなんとか食べていました。のどの痛みは医療用麻薬の貼付剤により落ち着いていましたが、治りきらない胆管炎と腫瘍による炎症のために微熱が続いていました。和子さんは「もう二度と入院したくない。お家で死にたい」と強く訴えました。体力は落ちていて、日中も寝たり起きたりして過ごしていましたが、なんとかお出かけしたいと、2023年の年末にはご主人の運転する車で大好きな道の駅に行き、すごくたくさんの食料を買い込んで来ました。しかし、外出の後は疲れが出て、食事ができない日々が1週間くらい続いたので、ステロイドという食欲を増進させる薬を投与し、造設してからずっと使用していなかった胃ろうから栄養補給したところ、数日後には元気が出てきて、口からも少し食べられるようになりました。翌年の2月上旬までは元気に過ごせて、「入院前に戻ったみたい」とニコニコされていました。
2月上旬のある日、和子さんは突然意識を失いました。がんとは関係ない脳卒中やてんかんなどの病気も考えられましたが、全身の状態が悪く、病院に行ったら退院できない可能性が高い状況でした。和子さんは自分の意思が表明できる状態ではありませんでしたが、ご主人は和子さんがずっと言い続けていた「お家にいたい」という意思を尊重したいとおっしゃり、そのままご自宅での療養を続けることになりました。2日後に目覚めた和子さんは、意識のない間のことは覚えておらず、けろっとした様子でご主人にアイスをねだり、「寝ながら食べるんだもん!」と満面の笑みを浮かべて、私たちを笑わせてくれました。その後もまた突然意識消失しては数日で目が覚めることを繰り返し、その度にだんだん衰弱が進み、眠って過ごす時間が長くなりました。しかし、幸いにも目が覚めている間はお話ができ、痛みなどの苦痛もなく、眠っている間はすやすやと穏やかな表情でした。2月下旬に再び昏睡状態となり、ご主人がつきっきりで介抱される中、静かに旅立たれました。
ご主人はその後も折に触れてお葉書で近況報告してくださり、当院の遺族会にもご出席いただきました。和子さんのご逝去から約8ヶ月のある日、主治医だった香西と当院の看護師がご自宅を訪問し、ご主人に和子さんのことについて語っていただきました。
和子さんはどんな方でしたか?
和子は心配性で、何事もきっちりしているタイプでね。小遣い制で1円単位まできっちり管理されていたよ。何かあったら困るからと、水やら洗剤やらすごくたくさん買い溜めして一部屋丸々物置にしちゃってて、それ以外にも押し入れとかキッチンの戸棚とかぎちぎちに物が入っているよ。洗剤なんか俺1人で使ったら一生分くらいあるよ。そんなに溜め込んでどうするんだと俺はいつも言っていたんだけどね。和子がいなくなって見てみたら、どこに何があるかもわからないし、使用期限が切れちゃってるものもあってね。見ていると切なくなるよ。
和子とは職場で知り合って、40歳くらいで結婚した。俺が入婿で、最初はお袋さんとは別居してたんだけど、その時も和子とお袋さんは毎日のように連絡を取りあって、よく一緒にスーパーに出掛けていたよ。セールとか割引とかが好きで、スーパーのチラシを隅から隅まで読んで、固形石鹸だけを買うためにママチャリで1日かけて東京の端から端まで買い物に行くこともあった。当時の電動自転車は性能が良くないから、途中で電池が切れちゃって、それでもめげずに漕いで帰ってくるんだ。電車で行くこともあったけれど、安いからって遥々出掛けて、電車賃のほうが高くついてるんじゃないかと思うこともあったよ。ポイントカードも山のように持っていたなぁ。
こだわりが強くて、人嫌いで、食べ物の好き嫌いも多いタイプでね。仕事だって何十回も転職してるんだよ。でも、俺とは喧嘩なんかしなかった。俺にもあーだ、こーだ言ってくるんだけど、言う通りにやってたからさ。「あんたが好きだろうから」といろんなものを取り寄せて冷凍庫に溜め込んで、俺が「お前が食べろ」と言っても食の好みが違うからって和子は食べないんだ。朝食は俺の分と和子の分といつも別々に作ってくれていたよ。俺は和食が好きで、和子はパンとコーヒーと決めていたらね。
テレビ番組ってグルメリポートとかご飯屋さんの紹介ばっかりなんだよねぇ。テレビでどこそこのあれが美味いって聞いたらすぐメモして、行きたいって言うんだ。九州まで車で行く時だって、途中でなんかあったら困るからってクーラーボックスにぎっちり弁当やらお茶やら持っていくんだ。駄菓子まで持っていくんだぜ。食いもしないのに。それで現地行って、目当てのものはそんなに美味しくなかったって言って、現地のスーパーに寄って、「これが安い」と言って洗剤まで買っていたよ。和子が文句言わずに美味しいって言ったものは・・・ないね!
遠出する時はだいたい夜に高速を走って現地に朝に着くように行くんだけど、和子はドライブ中は助手席でずっと眠っていた。起きていたら「あれ食べたい。これ食べたい。サービスエリアに寄る」とうるさくてしょうがないから、眠ってくれていてよかったよ。
病気がわかってから、和子さんはどんなふうに過ごしていましたか?
あとで聞いたら、中咽頭がんと診断されるより何ヶ月も前からのどに違和感があったんだって。だけど和子は本当に病院嫌いでね。インプラントの治療で通っていた歯科でのどに腫瘍を指摘されてからも、病院には絶対行かないと言っていた。弱音を吐かないタイプだから、相当痛くなるまで我慢していたようだ。痛がってるのを俺の方が見ていられなくなって、無理に引っ張ってがんセンターに連れて行ったんだ。手術を勧められたけれど、和子は即答で絶対に切らないと言ってね。俺は和子がそうしたいなら、それでいいかと思ったよ。
和子は食べるのが好きなのに、食べられない病気になってしまって本当に可哀想だった。舌も腫れて、味覚が変わってしまって、何を食べても覚えている味と違うから、「不味い、不味い」と言ってね。不味いってわかってるくせに「あれが食べたい、これが食べたい」と言うから、和子が欲しがるものはなんでも買って来てやったよ。ケーキだって、どこどこのケーキって細かい指定が入るんだ。
胃ろうを作った時は、温泉で人に見られるのを気にしていたな。でもすぐに慣れて気にならなくなったようだ。食べられなくなるだろうって胃ろうを作ったけど、3年半は口から食べられていたから使わなかったよ。最期の2ヶ月は胃ろうから栄養や薬を入れたから、その時はあって良かったと思ったけどね。
編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2024年某月