体験談 2025.11.10
体験談vol.25 冬本英美さん(仮名)の次女さん<後編>

・患者さんの病名:肝細胞がん、肝性脳症
・患者さんの年齢:80歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで6年10ヶ月
・訪問診療を受けた期間:10日間
・家族構成:夫と2人暮らしだったが、通院のために転居し、9ヶ月間は妹さんと2人暮らし。最期の10日間は次女さんがそこに同居。
・インタビューに答えてくださる方:次女さん
・インタビューの時期:逝去から2ヶ月後
目次
在宅療養の期間はどんなふうに過ごされていたのですか?
母が在宅療養をしていた期間は、たまたま仕事が休みの期間と重なっていたため、特に介護休暇を取得したわけではありません。私は、母が療養していた叔母の家に泊まり込み、付きっきりで一緒に過ごしました。
自宅に帰ってからの10日間で、棺には何を入れるかとか、遺影はあれにして欲しいとか、葬儀ではこうして欲しいということを話し合いました。自分が亡くなった後のことは考えたくない人の方が多いと思いますが、立つ鳥跡を濁さずの諺の如く、母にとってはきっちり準備しておくことが自分らしく生きることなのだと思いました。母がやりたいことをやらせてあげたいと思っていたので、私も叔母たちも、淡々と自分の死について語る母のことを受け入れました。
母は日々体調の変化があり、楽しく過ごせるという状況ではなかったと思いますが、悲壮感が漂ったり、鬱々と過ごしたりしていたわけではなく、1日1日を大事に、穏やかに過ごすことができました。入院している間は、母は気持ちが沈んでいて、どうやったら母を励ますことができるのだろうと思っていましたが、家で過ごし、訪問診療で来てくれる皆さんと対話することで、母が明るくなり、生きるモチベーションを取り戻すことができました。
病院にいた時から母はずっと延命を拒否すると言っていて、それは私たちも受け入れていました。しかし、実際に自宅に戻った時に急変したらと思うと怖さはありました。家で貧血の進行が疑われた時に、看護師さんから「輸血をするために病院に行くなら今日にでも行った方がいい。在宅でも輸血はできるけれど、準備に数日かかるので、その時間が待てない。でも、病院に行ったら、もう自宅に戻って来られないと思います」と伝えられました。輸血をしなければ死んでしまうと思うと病院に連れて行くべきかと悩みましたが、貧血だけの問題ではないから輸血をしても延命できないかもしれないし、母自身が家にいたいと言っているのだからここで踏みとどまらないと、と覚悟を決めました。
香西先生からは、延命をしたくなくて、家での看取りを希望されるなら、急変時にも救急車を呼ぶのではなく、必ずクリニックと訪問看護ステーションに連絡をしてくださいとお聞きしていて、母も一緒に聞いていたので、「何かあっても救急車は呼んじゃだめ」と自ら言っていました。母自身が家で最期まで過ごすことを決めたのです。
在宅療養を選んだからといって、家にいることを強いられるわけではなく、病院にも行けるし、家にいることもできるという選択肢を与えられ、自分たちで選ぶことができたからこそ、後悔しない最期を迎えられたのだと思います。病院ではなかなか選択権がなかったのですが、在宅ではこんなにも自分たちで決められるのだと驚きました。とことん説明を受けた上で、どの選択をしたとしても万全のサポートをしてくれることがわかったから、安心してお任せできました。私は当初、在宅医療に対して、看護師さんも医師も何もせず様子を診にくるだけだろうというイメージを持っていましたが、実際は全く違いました。

英美さんの最期はどんなご様子でしたか?
亡くなる日の2日前に訪問看護師さんから「ご家族や会いたい人を早く呼んだ方がいい」と伝えていただいてすぐに連絡したので、会いたい人みんなに会うことができました。
亡くなる前日の夕方に私の夫が来た時には、母は起き上がって座ってお礼を言い、気丈に振る舞っていました。玄関で夫が「また来ます」と言ったら、大きな声で「ありがとうございます」と言っていて、まさか翌日に亡くなるとは思いませんでした。それが母がまともに会話をした最期になりました。
その夜に意識が朦朧としてきて、それまでは下血や頭痛などでこっちが慌てるような状況になっても「大丈夫、大丈夫」と言っていた母が、その時初めて無言で首を横に振ったので、いよいよなのだなと思いました。退院直後は何かあったらどうしようと不安でいっぱいでしたが、自宅で10日間一緒に過ごして、母の状態が変わっていくとともに、私の中でも変化があり、母を看取る覚悟ができていました。
亡くなる日の早朝から爪と指先が紫色になり、冷たくなっていて、酸素飽和度を測るとSpO2 60%になっていたので、慌てて看護師さんに連絡しました。手を握り、さすってあげてくださいと言われ、みんなで交代でやってみたら、数値が少し上がりました。その後、いつ亡くなったのかわからないくらい自然に呼吸が止まっていました。
あんなに大病をしていたのに、最期は酸素しか使っていなかったのには驚きました。心臓も肝臓も悪くて、あちこち転移もあるから、最期は苦しんでしまうのではないかと不安だったのですが、眉間の皺もなく、穏やかな表情で眠るような最期だったのが不思議でした。それまでかなりの量の薬を飲んでいて、痛みがあったり、薬の効果がなかったり、効きすぎたりして、薬の変更を病院の主治医にお願いしたこともありましたが、主治医からは「これ以上薬は減らせない。減らしたら1週間後には心不全で死んでしまう」と言われていました。家に帰ってからは、お薬を減らし、最期の3日間は薬を飲まなかったのに、苦しまなかったのは、感謝しかありませんでした。亡くなる直前まで点滴を入れると苦しくなると聞いたこともあるので、母が苦しまずに逝けたのは、母が延命治療を希望せず、自然な最期を選んだからなのかなとも思いました。息を引き取る時には父も叔母もみんな揃っていて、みんなで看取ることができました。
後悔していることはありますか?
先が長くないとはわかっていたけど、もう少し猶予はあるのかなと思っていたので、家族で旅行にいく計画を立てていました。残念ながら旅行にいく時間はありませんでしたが、半年前にわかっていたら、行けたのかなと考えてしまいます。でも、10日間と短い期間だったから全力で介護できたのであって、半年だと私の方が仕事との両立も大変だっただろうし、体力気力ともに持たなかったかもしれないとも思います。どこにも連れていくことはできませんでしたが、母とたくさん話すことはできました。死に関しては、本人の望む通りにできたと思います。実家を出てから母とこんなにずっと一緒に過ごす時間はなかったので、そういう時間が持てたことは良かったと思います。
ただ、在宅療養に切り替える時期もせめて半年前くらいがよかったですね。通院と訪問診療を併用することもできると後で聞き、それが一番良かったかもしれないとも思います。
また、在宅療養で介護する側にとって大変なのは、トイレの世話と苦しむ姿を見ることだと聞いていました。母は下の世話を人にされたくないという気持ちが強く、亡くなる前日まで自分でトイレに行っていました。でも、貧血も心不全もある状態で、真っ青な顔で肩で息をしながらトイレに行かせてしまってよかったのだろうかと、未だに悩みます。母の尊厳を守りたい気持ちと、母に無理をさせてしまったという後悔がせめぎ合っています。ですが、母は貧血がひどくて病院だとナースコールを押して看護師さんに付き添ってもらわないとトイレに行ってはいけないと行動を制限されていて、それがすごくストレスだったので、そういった気持ちにさせなかったことは良かったかなと思っています。
亡くなる前日に口から痛み止めが飲めなくなって、医療用麻薬の貼付剤を開始しました。モルヒネの類似薬だと聞いて、それまでも医療用麻薬は使用していたらしいですが、名前が違うものだったのでその認識はなく、モルヒネを使う段階に来たということに動揺しました。モルヒネを使ったら死んでしまうという認識がありました。貼付してから24時間も立たないうちに母が亡くなってしまったので、あれを使ったから命が短くなってしまったのではないかと不安に思いました。でも、後に看護師さんから「貼ったことで痛みが取れて、穏やかに眠って過ごせたのかもしれない」と聞き、香西先生からは、「その薬は効果が出るまでに17時間くらいかかるから実際にはあまり効果はなかったかもしれないし、もし効果が出ていたとしても貼付した量はごく少なく、命に影響するものではない」と聞いて、罪悪感が取れました。
あと、母は誰にも、一度も病気がつらいということは言ったことがありませんでした。言わない人なんだと思っていましたが、言えなかったのかもしれません。もっと母が言いやすい環境を作るべきだったと自責の念に駆られています。
後悔と、これで良かったのだという思いは交互にやってきます。1つずつ振り返って考えてみたらその時の自分たちにできる最善の選択肢をしているし、それ以外選べなかったと思うのですが、これもあれもやってあげれば良かったとも思ってしまいます。ただ、それでも、家に連れて帰るという選択をしたこと、家で看取れたことに一切後悔はありません。母も本当に喜んでいました。
この気持ちはいつまで続くのでしょうかと、先日看護師さんにご挨拶に伺った時に質問しました。看護師さんからは、そういう気持ちになるのは自然なことだから、日常生活を送りつつ、母のことを考えていいのだと伝えてもらいました。「ああ、これでいいんだ」と気持ちが少し楽になりました。

在宅医療(訪問診療や訪問看護)に対して、どんなふうに感じていますか?
母の在宅療養中のみなさんとの関わりから、人間関係の構築において大切なことを学びました。また、介護の経験は自分の人生のこと、仕事のことなどを見直すきっかけになりました。
人を褒めることは大事なんだなと思いました。例えば、身体障害者手帳に載っている50代の頃の母の写真を見て、香西先生が「お綺麗ですね」って言ってくださった時、母が本当に嬉しそうな顔をしたんです。父は口下手だし、家族同士だとあまり褒めるような機会ってなくて。たぶん母は何年も人から褒められることなんてなかったんだと思うんです。特に病気になってからは、自分のことについて悪い話しか言われないですよね。私ももっと母にたくさん「ありがとう」「こんなに頑張ってきて、すごいね」って伝えてあげたらよかったなと思いました。
母が人との関わりで変わっていくのを見て、人の力って大きいんだなと感じ、これからの人生において、人との付き合いを大切にしようと思いました。
また、香西先生と看護師さんと薬剤師さんは同じ医療機関に所属しているわけではないのに、すごく連携が取れていてびっくりしました。看護師さんに吐血や下血が出ていることを伝えた時には、私たちの前では不安を煽らないよう、何でもないことのように落ち着いた様子で接してくださり、先生にはしっかり報告してくださっていました。薬剤師さんは必要な薬をすぐに届けてくださり、薬の使い方を細かく説明してくださりました。違う事業所でもここまで連携できるのは、日頃から密に連絡をとっていて、信頼関係が築けているからなのかなと思いました。仕事をする上で、コミュニケーションをとる重要性や、人に何かを伝えるときの言い方、タイミングについて、すごく勉強になりました。
母は香西先生と看護師さんに頼り切っていました。香西先生には病院の先生には聞きにくい素人的な質問も躊躇なくできて、病状や薬のことについてわかりやすく説明していただきました。看護師さんは、母のことを病人扱いせず、病気以外の話もしてくれて、私がこれまで一度も聞いたことのない話を母がしていることもありました。そんなふうに過ごせる時間が母にとって救いだったと思います。本当にありがとうございました。
英美さんの介護をする間、頼れる人はいましたか?
私ひとりなら不安でいてもたってもいられなかったかもしれませんが、叔母や父など、一緒に介護する人がいたので、交代で母を見守ることもできましたし、相談しながらやっていくことができました。
母が家に帰りたいと言ったから、連れて帰ることに決めたものの、母は入院している間ですらとても不安定な病状でした。心臓と肝臓の両方が悪いために、心不全に対する利尿剤を少し増やしただけで、脱水が進み、肝性脳症を起こしてしまう。かといって、利尿剤を減らすと心不全が悪化して、途端に息切れや浮腫が出てきてしまう、という状況で、果たしてこんな状態で家で過ごしていけるのだろうかと不安に思っていました。また、30年ずっと病院に通院していたものですから、病院との繋がりが切れてしまうことにも不安を感じていました。家族の中でも、入院していた方が安心なのではないかという意見もありました。私ひとりだったら決断できなかったかもしれませんが、母を家族みんなで支えたから自宅で過ごせたのだと思います。

いま英美さんになにを伝えたいですか?
「もうちょっと、長く一緒にいたかった」と伝えたいです。でも、生前の母に「やりたいことはないの?」と聞いたら「もう何もない」と言っていました。行きたいところも、会いたい人も、やらないと後悔するようなこともなくて、「ゆっくりしたい。家族で過ごしたい」と言っていました。諦めたような様子でそう言ったのではなく、心からそう思っているようでした。母自身は人一倍困難に満ちていたであろう人生に、満足していたのかもしれません。
娘さんご自身は最期はお家がいいですか?
家がいいですね。それが難しければ、施設がいいです。病院での最期というのは、嫌だなと思います。病院は治療するための場所だと思うから、最期を過ごすには適さない気がします。施設で過ごすとしても、そこが自分にとって居心地の良い、家のような場所になるよう、早めに入って、そこから仕事に通うのもありなのかなと思います。
母を見習って、私も先々のことを早めに考えておきたいです。私がそういう歳になる頃には、さらに高齢化が進んでいて、今ほど社会制度を頼れないでしょうが、選択肢の幅が広がって、自分で選ぶことのできる世の中になってくれていたらいいなと思います。

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月