体験談 2025.11.10
体験談vol.25 冬本英美さん(仮名)の次女さん<前編>

・患者さんの病名:肝細胞がん、肝性脳症
・患者さんの年齢:80歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで6年10ヶ月
・訪問診療を受けた期間:10日間
・家族構成:夫と2人暮らしだったが、通院のために転居し、9ヶ月間は妹さんと2人暮らし。最期の10日間は次女さんがそこに同居。
・インタビューに答えてくださる方:次女さん
・インタビューの時期:逝去から2ヶ月後

冬本英美さんが心臓弁膜症と診断されたのは54歳の時で、長女さんはまだ高校生、次女さんは中学生でした。心臓にある4つの弁のうち、大動脈弁、僧帽弁、三尖弁の3つに重度の問題があり、人工弁に置き換えたり、弁を縫い合わせたりする大手術を受けました。さらに、不整脈の原因となっている心臓の壁の一部を切り取る手術も同時に行われました。術後の経過は良く、通院しながら日常生活を送ることができました。
66歳の時にS状結腸がんの手術を受けた際に、C型肝硬変が見つかりました。抗ウイルス治療を受けて、6年後にC型肝炎ウイルスの持続陰性化を確認できましたが、すでに進行していた肝硬変は不可逆的なものでした。
73歳の時に肝細胞がんと診断されました。経皮的ラジオ波焼灼術(皮膚の上から肝臓に電極を刺して高周波を当ててがんを焼く、切らない手術)を受けましたが、肝臓内の別の場所で再発を繰り返し、79歳までの間に3回も同じ手術を受けました。79歳の時にワルファリンという抗血栓薬の副作用や肝不全の影響で急激に貧血が進み、定期的な輸血が必要になりました。
80歳の年の6月中旬ごろから頭痛、右顔面の感覚の鈍さ、右股関節痛を自覚するようになり、画像検査で肝細胞がんの多発骨転移と肝内再発を指摘されました。顔面の右蝶形骨と右上顎洞に転移があり、それが頭痛や右顔面の感覚低下の原因と考えられました。入院して顔面と骨盤骨に放射線治療を受け、痛みに対して鎮痛剤を処方されました。衰弱が激しく、今後は積極的な抗がん治療は行わない方針となりました。入院中の7月16日に突然昏睡状態となり、原因として肝機能が低下したことによりアンモニアなどの毒素が体内に蓄積し、肝性脳症という病気を発症していることが疑われました。急にそうなったのは、心不全に対して利尿剤を増やしたことで脱水が進んだためと推測されました。点滴により翌日には意識レベルは回復したものの、いつまた意識障害が起きるかわからない状況でした。しかし、英美さんの家に帰りたいという希望を尊重し、7月18日に退院となりました。
退院日より当院からの訪問診療を開始しました。その時点で右顔面から頭部にかけてと右鼠径部に持続的な痛みがありましたが、鎮痛剤を飲むと痛みは軽減しました。退院後の3日間で体重が1.5kg増加し、臥床時の息苦しさや両下肢浮腫が目立ってきたため、7月21日に利尿剤をわずかに増量し、その後症状は軽減しました。
7月25日朝から1日5、6回の下痢があり、下剤を中止しました。7月25日夕方には頭痛の増悪の訴えがありましたが、医療用麻薬で消失しました。夜から傾眠となり、下痢のために脱水が進んで、肝性脳症をきたしていると推測されました。7月26日に肝性脳症に対するアミノ酸製剤を点滴したところ、その日の夕方には少し目が覚めてきました。
7月27日朝から暗赤色の吐血が3回、同色の下血が3回みられました。持続的な嘔気はなく、貧血のためにうとうとしていましたが、意思疎通は取れていました。英美さんもご家族も病院には行かず、在宅療養の継続を希望されました。内服が困難な状態で頭痛を時々訴えていたため、医療用麻薬とNSAIDs(非ステロイド系抗炎症剤)の貼付剤を開始しました。その後は痛みを訴えることはなく、7月28日朝から昏睡状態となり、ご家族の見守る中、眠るように旅立たれました。次女さんは「本人が家にいたいといっていたからそれを叶えられてよかったです。最後は眠っているのか、息をしていないのかわからないくらい、とても穏やかでした」とおっしゃっていました。
英美さんのご逝去から約2ヶ月後の秋の気配を感じる日、次女さんに英美さんへの想いと在宅介護の経験について語っていただきました。

目次
英美さんはどんなお母さんでしたか?
とにかく人様に迷惑をかけないことが、母のモットーでした。礼儀正しくて、隙のない人でした。どの病気の時も主治医の指導を忠実に守って、6月に入院する間際まで薬も自分できっちり管理していました。そういう母だったから、大病を繰り返しても80歳まで生きられたのだと思います。
最期の10日間ですら自分のことは後回しでした。自分の妹や夫を気遣い、香西先生が来る時にはお花を飾り、お茶を準備して、1時間以上前から着替えて待っていました。亡くなる寸前までそうだったんです。もっと他に考えること、やることはあるだろうと娘の私は思ってしまいますが、そうやって過ごすことが母らしく生きることなんでしょうね。
英美さんは50代から大病を患っていますが、どんなふうに過ごされていたのですか?
母が弁膜症と診断されたのは54歳の時で、私は中学生でした。母は家族にはしんどそうな姿は一切見せなかったので、手術の話が出て初めて「そんなに悪いんだ」と知りました。術後もおそらく体調が悪いことも多々あったのでしょうが、母はなんでもないように普通の生活をこなし、私たちには気づかせないようにしていたのです。いいのか悪いのかわかりませんが、母はそういう性格なのです。我慢強くて、自分のことは後回しで、自分の感情は出さず、家族のことを考えているような人でした。私もある程度の歳になってようやく、母は言わないけれど、たくさん頑張ってきたのだと気づきました。
S状結腸がんが見つかって手術になった時も、その後にC型肝硬変の治療をしている間も、母はずっと1人で通院していました。大事な説明の時は父が同席することもあったようですが、ほとんど母だけでした。私が通院に同行するようになったのは、肝臓がんが見つかった後の1年くらいだけです。
母が亡くなった後に、今までの全ての病気の記録が出てきて、恐る恐る読んでみると、検査の結果や治療のことや先生に話したことなどが細かく記されていました。母はどんな思いでこれを書いていたのだろう、30年近くもの間ずっとひとりで通院して心細かったんじゃないだろうかと思うと、申し訳ない気持ちになりました。母がなんでもひとりでできるからと母任せにして、自分が関わらなかったことが悔やまれます。
母はよく神社やお寺巡りをしていて、そういうところが好きなんだと思っていましたが、もしかしたら、病気のことで誰にも言えない悩みがあって、お参りに行っていたのかもしれないと、今になって思います。
母は50代で弁膜症と診断された時からずっと、終活をしながら生きていたのだと思います。自分がいなくなっても困らないように私たちを一人前に育ててくれました。また、尊厳死やお墓のこと、家をどうするかをずっと考えていて、遺言書を何度も書き直してカバンに入れて持ち歩いていました。何かあったら先生にも見せるよう言われていました。弁膜症と診断された時からずっと、延命は希望していませんでした。少し前にお墓を買ったと聞いて、その時にはまだ早いんじゃないかと思いましたが、そう早くもなかったのですね。母のことを見習って、私も自分の老後や最期のことを考えるようになりました。

肝臓がんが見つかった時は、英美さんはどんなご様子でしたか?
母はどの病気の診断を受けた時にも、誰にも動揺を見せませんでした。大病を散々やってきて、毎回厳しい病状説明を受けていたから、というのもあるのでしょうね。73歳で肝臓がんと診断された時には、私が結婚して実家を出ていたこともあり、電話一本で「がんになった」と聞いただけでした。母がそんな調子だったので、そんなに重篤な状態だとは思っておらず、通院に付き添うようになって初めて知ることが多く、驚きました。
1年前から少しずつ衰弱が進み、通院も大変になってきました。貧血が進んで、家事をしたり通院したりするのも大変になってきたので、11月に母は叔母(母の妹)の家に移り住み、叔母と2人暮らしを始めました。
骨転移が出てきてからの変化はかなり急速だったと思いますが、その時の心境について教えてください。
この1年は相次いでいろんなことが起き、特に最期の2ヶ月は本当にあっという間で気持ちが追いつかなかったです。
それまでずっと定期的に受診して検査を受けていたので、何かあればわかると思っていました。6月に腰が痛いと言った時も、その後に歯が痛いと言った時も、まさかがんと関連のある症状だとは全く考えも及びませんでした。心の準備もしていなかった6月中旬に撮ったCTの結果説明の際、あちこちに骨転移があり、末期だと告知され、呆然としてしまいました。主治医からは即日入院を勧められましたが、母はものすごく嫌がっていました。今までずっと医師の意見に従ってきた母が、そんなふうに反発するのは意外で、よほど心身ともにつらいのだなと察しました。私も入院しない方がいいのではないかと思いましたが、主治医からは「今日が無理なら明日」と言われ、選ぶ余地はありませんでした。
母は泣き言を言いませんでしたが、入院してからも早く退院したいと何度も言っていました。入院中にこれ以上の治療ができないことや余命についてもお聞きして、残りの時間は母の好きなようにさせてあげたいと思いました。私自身もとても気持ちが乱れていましたが、落ち込んだり、ショックを受けたりしている暇はないと思い、時間がない中で残りの時間をどう過ごすかだけを考えるようにしました。もう少し早く予後や余命を主治医の先生から聞けていたら、もっと落ち着いて準備ができたかなと思います。
在宅療養を希望されたのはどうしてですか?
母の両親も自宅で亡くなりました。介護は主に母の妹と弟がしていましたが、母もできる範囲で手伝っていました。自分の両親が自宅で亡くなる姿を見て、母自身も家での最期を考えていたのだと思います。でも、母から家で過ごしたいと聞いたのは、本当に最期の最期でした。6月の入院中にやっと、家で過ごしたいと言ったのです。病院は嫌だけれど、自宅で家族に迷惑をかけるのはもっと嫌だという思いがあって、言えなかったのだと思います。自分のことはいつも後回しの母が、家に帰りたいと言ったので、その希望だけは叶えてあげなければいけないとその一心でした。

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月