体験談 2026.02.03
体験談vol.32 進藤淳さん(仮名)の奥さん

・患者さんの病名:膵頭部がん
・患者さんの年齢:71歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで1年10ヶ月
・訪問診療を受けた期間:8日間
・家族構成:奥さん、長女さん、長男さんと4人暮らし
・インタビューに答えてくださる方:奥さん
・インタビューの時期:逝去から3ヶ月後

進藤淳さんは真面目で冷静沈着、決断力のある一家の大黒柱です。激務のサラリーマンを定年まで勤め上げた後は再雇用で働きながら、奥さんや長女さんや長男さんと共に穏やかな日々を過ごしていました。
70歳になる年の秋に会社の健康診断で膵頭部腫瘍を指摘され、病院で膵頭部がんと診断されました。化学療法を開始しましたが、腫瘍が増大し、翌年3月に膵頭十二指腸切除術を施行されました。その後経過観察していたところ、同年7月に肝転移と腹膜播種が出現し、化学療法を再開しました。化学療法は一時的な効果はありましたが、徐々に肝転移が増大し、化学療法再開から1年後には急速に腹水が溜まり始めました。衰弱も進んで通院も難しくなり、8月20日より当院からの訪問診療を開始しました。
2日前に病院で腹水を約5L抜いたばかりでしたが、8月20日には腹水が6Lほど溜まっており、腹部膨満感、筋力低下、倦怠感、心窩部不快感でお困りでした。経口摂取量は推定450〜600kcal/日程度と少なく、排ガスのたびに脂肪便が出ていました。日ごとに動くのが大変になってきていることを実感されており、8月18日からは1人でシャワーが浴びられなくなり、奥さんの手を借りていました。
腹水のコントロールを図るためにアルブミン製剤と利尿剤を投与し、腹水を少量ずつ抜きつつ、脱水の進行による口渇や起立性低血圧に対して少量の点滴を行いました。8月24日には背骨に沿って褥瘡が出現しました。
8月26日に淳さんは「日に日に弱っていて、もう限界だと思うので、すぐにでも緩和ケア病棟に入院したい」と訴えました。登録していた緩和ケア病棟に連絡をとり、8月28日に入院が決まりました。8月27日の日中に訪問した際には、淳さんは「すぐに入院させてもらえることが決まって本当にホッとした」とおっしゃっていました。帰り際には「今晩何かあった時には先生にご連絡するのでいいのですよね?」と聞かれ、「もちろん、ご連絡ください」とお伝えしました。
8月27日夕方、淳さんは長男さんに「明日は仕事を休んでくれないか?朝9時までは一緒にいてくれ」と言いました。淳さんが長男さんをそんなふうに頼ってくるのは初めてのことだったそうです。22時50分ごろ、長男さんの介助でトイレに向かいました。ベッドからなかなか立ち上がれず、3回目でヨイショと立ち上がり、支えてもらって1歩1歩なんとか歩きましたが、便座の前でガクッと崩れて座り込んでしまいました。長男さんが支えたら、淳さんは目を見開いて長男さんを見て、何か言葉を発し、そのまま動かなくなったそうです。奥さんは動転して救急要請されましたが、救急隊到着時には心肺停止状態でした。奥さんはなんとか蘇生してほしいと救急隊にお願いしていましたが、救急隊から当院に連絡をいただいて、状況から蘇生が難しいと判断し、当院で往診しました。奥さんに病状と状況を説明し、淳さんが延命も蘇生も希望されていなかったことも踏まえ、ご自宅で死亡を確認しました。淳さんは何か感じていたのかもしれません。本当は家にいたい気持ちもあったのかなと思います。亡くなった時のお顔は穏やかな表情でした。
長男さんは「最期に私をじっと見たのは、あとは頼んだぞ、という意味なんだと思います」とおっしゃっていて、奥さんは「本人が延命を望まないのは知っていましたが、家族としてはやっぱりどんな形でも生きていてほしかった。本人も本当は長生きしたかったと思います」と涙ぐんでいました。
淳さんのご逝去から約3ヶ月後の、少しずつ寒さを感じるようになってきた冬の始まりの日に、奥さんに淳さんへの想いと闘病生活について語っていただきました。
目次
最近はどんなふうに過ごしていますか?
夫が他界して3ヶ月経ちますが、事務的な手続きのことはわからないことばかりで、娘と息子に手伝ってもらいながら、なんとか進めています。やらなければいけないことに忙殺されて、全然心に余裕がない状態です。
夫ががんと診断されてからの1年10ヶ月は、夫のことで頭がいっぱいで、自分の体調は気に留めていなかったのですが、夫が亡くなって気が抜けたのか、持病の変形性膝関節症や腰痛症が悪化して、家の中で動くだけでもつらい状態です。心身ともにボロボロですね。私の方がいろいろ病気を患っているので、夫より先に逝くと思っていました。
がんの診断から外来治療中のことについて教えてください。
会社の健康診断で膵臓に影があると言われ、病院を受診したら膵臓がんと診断されました。診断の時もそれ以降も夫はいつも冷静で、なんとかしてくれとも、痛いとも言わず、淡々と医師の説明を聞いていました。症状や血圧などの経過記録をパソコンで作成し、受診の度に持参していました。薬のことや病気のことをインターネットで調べて、自分の状態を客観的に分析していました。私だったら到底そんなふうにはできないと思います。
がんと診断された時、夫は再雇用でまだ仕事をしていましたが、診断されてすぐに退職しました。会社に迷惑をかけたくなかったんだと思います。実際、働きながらの闘病は難しかったかもしれません。がんになってからは病院が生活の中心でした。診断当初から1年10ヶ月の間、病院に週1回通院し続け、検査や抗がん剤などを受けていました。外来は検査や抗がん剤のために毎回一日掛かりで、抗がん剤のあとは体調も悪くつらそうでしたが、最後の2ヶ月以外は電車で移動していました。弱音を吐くことはなく、優先席に座ることすらしませんでした。むしろ、膝の悪い私を気遣って席を譲ってくれました。気丈で、強くて優しいひとです。
通院の際にはできるだけ私が付き添うようにしていました。病院から「何かあった時のために誰かひとりは家族の付き添いが必要」と言われていて、私が行けない時は娘か息子にお願いしていました。夫が徐々に弱っていく姿を見ていたら、「足が痛いから付いていけない」なんて言っていられなくて頑張っちゃいました。
肝臓に転移したり、腹水が溜まってお腹がパンパンになっても、夫は鎮痛剤を要求することすらありませんでした。「痛くないの?」と聞くと何も言わなかったので、おそらく痛みはあったけれど、夫のポリシーとして鎮痛剤にあまり頼りたくないという思いがあったのだと思います。
夫がはっきり聞くものですから、主治医は病状や予後についても詳しく説明してくださいました。診断の当初からなんでも聞いていましたが、夫の口から「いつまで?」と具体的な時間を問う言葉が出たのは、亡くなる5ヶ月前、今年の3月頃のことでした。私はなんでそんなことを聞くのかと驚きましたが、夫は自分の体のことだから、色々と思うところがあったのでしょうね。主治医には「今年の桜が見られるかどうか」と言われ、たった1、2ヶ月の余命なのかと、私はひどく動揺しました。その予測よりは少し延びて、それから5ヶ月後に亡くなりました。よく頑張ってくれたと思います。

淳さんががんと診断された時、奥さんはどんな気持ちでしたか?
すごくびっくりしました。コロナ禍でテレワークをしていた頃から腰が痛いと言っていましたが、もっと若い頃から慢性的な腰痛があったし、がん家系でもないので、まさかがんだとは思いもよりませんでした。夫のことが心配でしょうがないのはもちろんですが、それだけでなく、いままで何もかも夫に頼り切って生活してきたので、これからどうやって生活していったらいいのかと、すべてのことが不安になりました。
夫は私たちには終ぞ言いませんでしたが、がんと診断されて落ち込んでいたと思います。毎週の採血も生検などの検査もすごく大変で、私だったら、検査だけで「もういいです」と言ってしまったかもしれません。私がもっとしっかりしていたら、夫をもっと支えてあげられたんだろうか、夫がもっと弱音や本音を口にできて、私たちのためではなく自分のための医療を受けられたんだろうかと申し訳なく思ってしまいます。

淳さんはがんと診断される前から、元来強い方なのですか?
夫の両親ともとても忍耐強い方達だったので、夫も小さい頃からそういう教育を受けていたのかなと思います。サラリーマン時代はかなり多忙で、つらいこともあったと思いますが、家族に愚痴を言うことは一切ありませんでした。帰宅した時の表情から、何かあったのかなと思うこともありましたが、夫が何も言わないので、私も聞けませんでした。
夫はあまりひとに頼るひとではなく、実姉に対してでさえ心配をかけたくないと思ったのか、最後の最後まで病状については話していませんでした。亡くなる1ヶ月前になって、自分の身の回りのことができなくなってきてようやく、姉に告げて、緩和ケア病棟の面談などは姉と娘に行ってもらいました。その時は、自分のことがどうというより、私に負担をかけまいと姉に連絡してくれたのでしょう。夫の行動の基準は、自分がどうしたいかの前に、家族にとっての最善であったように思います。
遺影もそうですね。義両親が亡くなった時に遺影にできる写真がなくて随分探したので、自分の時には家族が困らないようにと、50代くらいから毎年お正月に自分で遺影を撮影していました。私はそんな夫を見て気が気でなかったのですが、止めるのも変かなと思い、遺影を撮る夫を黙って見ていました。20年分の遺影を見て、夫はどんな気持ちで撮影していたのだろうと思います。

奥さんはこれまでに介護の経験はありましたか?
私の両親はふたりとも50〜60代で他界したこともあり、両親を介護することはありませんでした。
私は25歳の時に3歳上の夫と結婚して、すぐに義両親と同居を始めました。義母は私が嫁いで2ヶ月で病気で倒れ、1年くらいで亡くなりました。義母の介護はそんなに長い期間ではありませんでしたが、私も若かったのでどう接していいかわからず、戸惑いました。義父は71歳まで生きて、娘を幼稚園に送って帰ってくる時に道路で倒れて急死しました。寒い冬の日だったので、心臓の疾患だったのかなと思います。義父は亡くなる直前まで元気だったので、特に介護らしい介護はしていません。ですから、私が本格的に介護をするのは夫が初めてで、本当に何もできませんでした。

奥さんを支えてくれる方はいますか?
もし私がひとりだったら、何もできなかったと思います。娘と息子が私ができないことを全部代わりにやってくれました。夫も私にはできないとわかっているので、亡くなった後にやらなければいけないことは娘と息子に伝えてくれていて、私に負担をかけないようにと言い聞かせてくれていました。
夫は子煩悩で、幼い時からよく子どもの面倒を見て可愛がってくれていたので、子どもたちも夫の言うことはよく聞いてくれます。いい夫であり、いい父親だと思います。娘は主人が作った経過記録を見ると悲しくなってしまうみたいで、私以上に泣いています。
淳さんとの思い出で1番楽しかったのはなんですか?
楽しかったというか、誇らしいのは喧嘩したことが一度もないことです。夫は私の性格をよくわかっていて、私にわかるよう理論的に丁寧に説明してくれたので、いつも喧嘩になる前に問題が解決しました。私はお気楽でズボラで、夫は神経質で真面目です。意外とこの組み合わせが良かったのかなと思います。
あとは、夫は車が好きで、よく家族でドライブに出かけました。忙しくてもあちこち連れて行ってくれて、家族の時間を大事にしてくれました。

淳さんはどうして緩和ケア病棟を希望していたのでしょうか?
亡くなる1ヶ月前の7月になって、誰の目にも明らかに夫の状態が変化してきた頃、夫は「最期は家ではなくて緩和ケア病棟がいい」と言い出しました。口では「病院の方が安心」と言っていましたが、私の負担を慮っての発言だと思います。
ですが、やっぱりギリギリまで家にいたいという思いはあったのでしょう。だから、亡くなる時も、息子にトイレに連れていってもらって、そこで息絶えました。限界まで自分の力で頑張ろうとしていました。

奥さんはこれからどんなふうに生きていきたいですか?
夫は、家族みんな仲良くして欲しいと思っていると思います。実際、子どもたちと散歩に出かけた時などにそういった話をしていたそうです。夫が家族を大事にしてくれたおかげで、幸せな人生が送れました。こんなに私たちのことを思ってくれるひとと出会えたことには感謝しかありません。お家で看取れて、最期まで一緒にいられて、夫もいい顔で亡くなって、よかったと思います。いまも夫はそばにいてくれるように感じます。ただ、本当にもう少し長生きしてほしかったです。もう少し一緒に人生を歩みたかったです。
夫の教えを守り、子どもたちと一緒に支え合って生きていきたいと思います。私が体調を崩すと子どもたちに負担がかかってしまうので、まずは自分の体調を整えていきたいです。最近よく転ぶので、落ち着いたら検査に行こうと思っています。夫に心配させないよう、頑張らないといけません。夫がいないことが悲しくて、たまに挫けてしまいそうになるのですが、夫があんなに弱音一つ言わず、最期まで自分の足で歩いてトイレに行こうとしていた姿を思い出したら、ぐっと堪えることができる気がします。

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月