MENU

体験談 2026.01.23

体験談vol.31 中津 出さんの奥さん、長女さん<後編>

体験談vol.31 中津 出さんの奥さん、長女さん<後編>

・患者さんの病名:膵頭部がん
・患者さんの年齢:90歳
・闘病期間:発症から逝去まで1年
・訪問診療を受けた期間:8ヶ月
・家族構成:奥さん、次女さんと3人暮らし。長女さんが上京して泊まり込みで介護を行う。長男さんが都内在住。
・インタビューに答えてくださる方:奥さん(専業主婦、80代)、長女さん(自営業、50代)
・インタビューの時期:逝去から1ヶ月半後

それまで大病のなかった出さんが不整脈や脳梗塞、がんを立て続けに発症した時は、どんなご様子でしたか?

長女さん:
父は100歳までやりたいことをやるためにカテーテルアブレーションを行いました。1回目で完治するはずが、不整脈が止まらず、もう1回試みるつもりでした。アブレーションの入院の際はコロナ禍で面会もできず、入院生活が相当つらかったみたいです。それでも2回目のチャレンジをするつもりでしたが、その前に脳梗塞になってしまいました。父はもともとよく食べる方で、畑仕事もしていたから、80代の割にかなりがっしりした体格でした。食欲旺盛な父が、脳梗塞になって意識障害も起きてひとりで食べられなくなった姿を見た時は、すごく泣けてきました。

私が結婚する時、父には「お前はもう中津じゃない」と突き放されました。昭和の考えで、出戻ってくるなという意味だったんだと思います。だから、それから何十年も嫁いだ者として一線を置かれた関係性だったのですが、父が88歳になって人生で初めて大病を患い、鹿児島の病院で手術を受けることになって、「俺のことよりも、お母さんをひとりにするのが心配で治療に専念できないから、鹿児島に来てくれないか」と電話がありました。父にとって何より大事なものが母だったのでしょう。私はちょうど義母の介護がひと段落ついて動ける状態になっていたので、鹿児島に行きました。

何か病気が見つかったり、治療を行なったりするときには毎回、父は「自分にもし何かあったらそのままでいいからな」と言っていました。「もういいからな」と言われても、父の生命力が凄すぎて、延命治療をしていなくても余命がどんどん延びていたので、こればっかりはどうにも、と思っていました(笑)父はなんでもチャレンジしたい向上心のあるひとでしたが、自分で動けなくなっても静かに全部受け入れて、何も文句を言いませんでした。
何か父の嫌がるようなこと、たとえば浣腸とか採血とかをやる時には、「お父さんこれ嫌って言ったら病院だよー」と冗談めかして言うと黙っていました。よっぽど病院には行きたくなかったんだなと思います。

ノートを見ながら机を囲む女性たち

脳梗塞の後、がんを発症するまではどんなふうに生活していたのですか?

長女さん:
寝たきりの状態からものすごく頑張ってリハビリをして、車椅子に座っていられるようになり、タクシーや飛行機にも乗れるようになり、東京でも3ヶ月入院してリハビリをしてようやく退院しました。帰ってきた時は本当に嬉しそうでした。家に帰ってからも元通り動けるようになるつもりでリハビリを頑張っていました。要介護3から2になった時は、通信簿をもらったかのように喜んでいました。

長男、次女が東京在住で、孫もみんないるので、東京を拠点にするのがいいのではと家族で話し合いました。長男は平日に休みが取りやすいので通院同行を行い、次女が資金繰りをしてくれて、母は料理を担当し、私は父の介護をするために京都から単身赴任しました。当初はこんなに介護の期間が長くなるとは予想していなかったのですが、父が頑張っていたので、私も帰るに帰れなかったです。そういうふうに家族で役割分担をはじめからばっちりしていました。

奥さん:
私が豆乳トマトスープとかスムージーとか、体に良さそうなものを作って出したら、まずいとも言わずに飲んでいました。ご飯をスプーンで食べさせるときも、何も言いませんでした。主人が文句を言ったのは、私がリビングのテレビで相撲を観ていて、主人は居室でネット中継の同じものを観ている時、時差があって私の方が先に結果を知ることが多くて、私が「勝った〜」と結果を言ったときくらいです(笑)

ノートを見る医師

がんと診断され、訪問診療が始まってからはどうでしたか?

長女さん:
香西先生や看護師さん、薬剤師さんの連携を見ていると「すごい!これならやり切れる!」と思いました。父の具合が悪い時でも、みなさんが明るく、お祭りのように賑やかにケアをして下さったので、家族も気持ちが暗くなることがなかったです。
最期の10日間は痰も出ていて、さらには喀血もあり、苦しそうな時もありましたが、香西先生に「病院に行っても治せるわけじゃないし、お父さんも勝負かけていますし、頑張りましょう」と体育会系のノリで言われたので、私もやるしか無いと気合を入れました。吸引などで眠れない日もありましたが、頑張れましたよ、先生!

お看取りの時のことについて教えてください。

長女さん:
父が亡くなったのは金曜日ですが、その週の月曜日の時点で香西先生に今日が山だからと言われ、それから尿が出なくなり、そういう時期にあることを実感しました。でも、それまでも何度もピンチはあったし、父の状態がゆっくり変わっていっているのを間近でみてわかっていたので、私たちはもう覚悟はできていて、特別なことをすることもなく、それまで通りに日々を過ごしていました。山だと言われてからも父が何日も頑張って、土日だったら普段の担当の訪問看護師さんじゃないからなぁなんて、私は考えていました。そうしたら、金曜日に香西先生が来てくれた30分後、訪問看護師さんたちが来てくれているときにスーッと亡くなりました。それまで喉のところでゼロゼロ音がしていたのが急に静かになりました。急に音が止まったので、何か詰まらせてしまったのではないかと焦りましたが、香西先生や看護師さんの説明を聞いて、自然に父の寿命が尽きたんだなと思えました。
馴染になった訪問看護師さんが、亡くなった後も「出さん!髪型どうします?ジーパン着せちゃうよ!」と笑顔でエンゼルケアをやってくださいました。

亡くなった日の夜に何もやることがないと気づいて、改めて父の死を実感しました。でもその次の日からは本当に久々に熟睡できました。もしかしたら、これ以上は私の身体も限界だったのかもしれません。余命がわかっていて介護できる体制や環境があったので在宅で最期まで頑張れました。

奥さん:
家にいたから、毎朝みんな仕事に行く時に挨拶して、帰ってきてからも一緒に話す時間があったのがよかったです。成人してからは子どもたちとは別に暮らしていましたから、そういう時間が持ててよかったです。

長女さん:
母の言う通りです。私は21歳で結婚して家を出てからは父の言いつけもあり、夫の家の者として過ごし、仕事や子育てや義母の介護に明け暮れていたのもあって、最後くらいは父と一緒に過ごしたいなと強く思っていました。私と妹は間違いなくファザコンだと思います(笑)主人も介護期間中別居になることにも理解を示してくれてよかったです。悔いはないです!ありがとうございます。

奥さん:
いまの生活があるのは主人のおかげだといつも思っています。病気になるまで、80歳を過ぎてからも懸命に働いてくれて、いまも年金で生活できるくらいにしてくれて、61年一緒にいてくれてありがとうとしか言えないです。最期だけじゃなく、出会ってからの61年間全く後悔はありません。

メガネをかけた女性

介護している間に喧嘩したことはありますか?

長女さん:
ほとんどなかったです。最後の最後の時だけですね。私が吸引をすると父が「痛いだろう。何やってるんだ、馬鹿野郎」と言い、そこで母と妹が「痛かったね、痛かったね」と父を労るから、まるで私が悪者みたいになってしまって、その時だけはちょっといじけそうになりました。訪問看護師さんに泣きついたら、「私たちがやりますので、娘さんは最後にちょこっとだけやってください。夜中も呼んでいいですから」と言ってくれて、救われました。

初めから役割分担をきっちりやっていたので、介護のことで揉めることはなかったですね。夜中は私以外の家族はぐっすり眠ってもらっていましたから、「昨日大変だったんだよ」と母に伝えても「そうなの?気づかなかった」と言われていました。

奥さん:
いろいろトラブルがあっても、香西先生や看護師さんや娘たちがうまく対処してくれたので助かりました。真夏に主人の部屋のエアコンが壊れて、別室のエアコンを18度にして風を送り込んでいたから、リビングにいる私は寒くてアクリルボードで囲ったキッチンに入っていたこともありましたね。介護は創意工夫なんだなといろいろな場面で感じました。

他の方にも在宅介護を勧めたいですか?

長女さん:
環境とマンパワーが整うなら、ぜひそれがいいと家族の立場として思います。今回私以外は、母も弟や妹も初めての介護だったんです。私は認知症の義母の介護を3年間くらい家でやっていた経験がありました。もし、私も含めて全員未経験だったら、なんとなく不安で病院を選んでしまったかもしれませんが、在宅医療チームの連携はすごいので、なんとかなると公言したいです。もし親戚で介護をどうするかという状況になったら、アドバイスしに行きたいです。在宅は大変だと思われがちですが、意外と病院にお見舞いに行く方が疲れてしまうんじゃないかなと思います。離れていても、今はどんな状態か心配になりますし。

育児中に話す相手がいなくて大人に会うと機関銃のように喋っちゃうのと同じで、先生たちが来ると嬉しくてたくさん話してしまいました。
父の8ヶ月の記録を記したノートは5冊になりました。それから、父が脳梗塞でリハビリ入院している間に渡したアルバムはこれです。「愛するチヤ子さん(母)は私が預かっていますので」なんて書いてありますね。父との大事な思い出です。

笑顔の高齢女性

これからどんなふうに生きていきたいですか?

奥さん:
いままでは主人の後をついていくような人生だったのですが、これからは自分でいろいろチャレンジしてみようかなという気持ちになっています。次女の帰宅を待つ間、ひとりで過ごす時間が長いので、YouTubeを見て新しい料理に挑戦するようになりました。あと、足腰が弱いので鍛えるために通所リハビリにも通おうと思っています。
もしもの時も、できるだけ家で過ごしたいなと思います。

長女さん:
母は最近いろいろ興味が出てきてやりたがるので、まるで父が乗り移ったみたいな時があります。父はリハビリでスマホの練習もしていたのですが、脳梗塞の後遺症で麻痺があり、タッチパネルがうまく操作できなかったんです。隣で母がスィーっと画面を操作してインターネットを使いこなしているのをみて、悔しそうでした(笑)父はいつも自分が先に行って母が後からついてくるのが当たり前だと思っていたようですが、父が脳梗塞になってからの2年間で逆転しましたね。ペースメーカーのために入院した時には母のことが心配だと言っていましたが、いまは逞しくなった母の様子を見て安心しているかもしれません。母が病気になった時は、また家族で大集結し、先生や看護師さんに助けてもらいますね。

屋久島の畑は父の倒れた2年前からほとんど手付かずなので、植物は伸び放題で、果実は猿や猪に食い散らかされていると思います。今後は私が屋久島の畑担当になったので、来年には手入れをしに行きます。父の介護をしている間の8ヶ月くらい、私は夫と離れて暮らしていたのですが、夫婦ふたりの時間も大切だと気づき、これからはふたりで旅行に行ったり、屋久島でのんびりしたりしようと思っています。

家族写真

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月

トップ/スペシャルコンテンツ/体験談/体験談vol.31 中津 出さんの奥さん、長女さん<後編>