体験談 2026.01.23
体験談vol.31 中津 出さんの奥さん、長女さん<前編>

・患者さんの病名:膵頭部がん
・患者さんの年齢:90歳
・闘病期間:発症から逝去まで1年
・訪問診療を受けた期間:8ヶ月
・家族構成:奥さん、次女さんと3人暮らし。長女さんが上京して泊まり込みで介護を行う。長男さんが都内在住。
・インタビューに答えてくださる方:奥さん(専業主婦、80代)、長女さん(自営業、50代)
・インタビューの時期:逝去から1ヶ月半後

中津 出さんは屋久島出身。定年後68歳で屋久島に戻り、山を切り開いて畑を作り、野菜や果物作りを楽しんでいました。夢は屋久島産のツバキ油を名産品にすることで、病気になる少し前にやっとツバキ油が採れ始めたところでした。
88歳の時に健康診断で不整脈を指摘され、ペースメーカーを挿入しました。しかし、それから半年後に脳梗塞を発症。リハビリを続けましたが、後遺症として右片麻痺と高次脳機能障害(運動性失語、右半側空間無視など)が残り、89歳の年の2月に東京の次女さん宅に退院しました。出さんは家に帰ってからも自主トレーニングを続け、杖歩行で奥さんと散歩に行くのを楽しんでいました。
次女さん宅での生活にも慣れてきた8ヶ月後、健康診断で便潜血陽性を指摘され、二次健診を予定していた矢先の翌年1月に黄疸が出現し、緊急入院となりました。CTで膵頭部腫瘍と両肺転移を疑われ、その後に膵頭部がんと診断されました。黄疸を改善させる目的で胆管ステントを留置し、貧血に対しては輸血が行われましたが、衰弱が急速に進んで寝たきりに近い状態になっており、それ以上の治療はできないと説明されました。90歳の年の2月6日に次女さん宅に退院となり、2月25日より当院からの訪問診療を開始しました。
当院初診時、2日前からの発熱、腹痛があり、胆管炎と敗血症の診断で抗菌薬治療を行いました。感染治療後も食事が取れない状態が続いており、出さんは「このまま死ぬのは絶対嫌だ」とおっしゃっていたので、病院で栄養補給を行うための中心静脈栄養ポートを造設しました。それからは、経口摂取は無理のない範囲で行い、中心静脈栄養で1000kcal/日程度投与しました。3ヶ月間くらいはすこぶる調子が良く、出さんはリハビリに意欲的に取り組んでいて、ベッドの端に10分くらい座れるようになり、リクライニング車椅子で公園に散歩に行くこともできました。
しかし、7月以降徐々に食欲が低下し、がんの進行に伴う悪液質が疑われました。ステロイドを投与しつつ経過を見ました。8月下旬から喀痰や低酸素血症が悪化し、肺転移の進行が疑われ、在宅酸素療法と去痰剤、体位ドレナージで症状軽減を図りました。10月からは浮腫も目立つようになり、点滴を漸減しました。
10月19日には喀血し、息苦しさが一層強くなり、医療用麻薬と鎮静剤を使用しました。幸いにして喀血は1日で治りましたが、それを機に呼吸状態は急激に悪化し、10月20日には発熱も見られ、血圧も酸素飽和度も測定不能で、脈も触れず、チアノーゼも出現しました。余命数時間と思われましたが、喀血に伴う肺炎の可能性も考えられ、それまで何度か発熱した際に抗菌薬が著効したことから抗菌薬を投与したところ、翌日には血圧が測定できるようになり、チアノーゼも軽減しました。10月19日の喀血以降は昏睡状態が続いていて、呼びかけにかろうじて瞼を振るわせたり、頷いたりする程度しか反応はみられませんでしたが、生きようとするすごい生命力を感じました。10月22日から息苦しさの緩和のために医療用麻薬の持続皮下注射を開始しました。ご家族は「9月までだったら、色々後悔したかもしれないけれど、ここまで来るとあっぱれ。負けず嫌いで、諦めない父なんです」と笑っていて、疲労や緊張のピークを超えて、頑張る父を応援していました。
10月24日にご家族みんなの見守る中、出さんは静かに旅立たれました。最期の最期まで頑張って生きよう、生きようとされていました。長女さんは「私たちはみんなやり切ったと思っています。やれることは全てやってあげたし、父も本当によく頑張ってくれました。後悔は何もないです」と笑顔でおっしゃっていました。何度も厳しい状況を乗り越え、逞しく生きる、希望を捨てない出さんの生き方にとても考えさせられました。
出さんのご逝去から1ヶ月半後の雲ひとつない秋の日に、奥さんと長女さんに出さんへの想いと介護の経験について語っていただきました。

出さんはどんな方でしたか?
奥さん:
真面目。努力家。あとは自分の目的に向かってなんでもやって行きたいという感じです。
長女さん:
読書家で、本からあらゆる情報を吸収しようとするひとでした。屋久島の家にも手作りの本棚があって、これからゆっくり読みたい本を収集していました。
私は小さい頃から、「高校までの学費と自動車免許の費用まではお父さんが出すから、あとは自分でやっていきなさい」と父に言われていました。父に事業の借金があることは結婚するまで知らされておらず、塾なども行かせてくれず、進路を決める際にも私の希望通りにさせてくれなかった理由がわからず、両親に反発していた時期もありました。
塾に行く代わりに、「お父さんが教えてあげるから」と言われましたが、父は説明が回りくどく、数学の公式の説明に30分以上かけるため、だんだん自学自習するようになりました。
また、私は教師になりたかったのですが、中学2年の三者面談時に忙しいはずの父が突然来て、「この子は就職を考えております。願わくば商業高校をお願いしたく」と何の前触れもなく言い出して、頭が真っ白になりました。私は父の言う通り商業高校を卒業し、証券会社に入社して営業職になり、その後結婚、子育てが一段落した7年前に夫の家業を継いで商店をやっています。商業高校で学んだ簿記は、商店をやるようになってやっと役立ち、いまとなっては父に感謝しています。

出さんがどんな人生を歩んできたのかを教えてください。
奥さん:
主人の父は42歳で他界しました。主人は7人きょうだいの三番目で、上のきょうだいが親代わりになってくれて、長兄に高校の学費を出してもらったそうです。主人は高校卒業後、大分の営林署に勤め、23歳頃屋久島に戻って次兄とポンカン畑をやっていました。でも、台風が来て全部落とされてしまい、うまく採算が取れなくて、30代から役場に入りました。私とはその役場で出会いました。地元は同じ屋久島なんですが、私は7つも年下でしたから、そこでの出会いが初対面です。その後、長兄が鹿児島に開いた製材所を手伝っていたのですが、41歳で倒産してしまい、42歳の時に働き口を探して家族で東京に出てきました。
上京してからは、手当たり次第になんでもやっていました。乗用車しか運転したことがなかったのに、トラックの運転手になり、道がわからないので迷ってしまって年下の同僚からも怒られていましたが、それでもめげずに頑張ってくれていました。長兄の倒産した会社の保証人になっていたので、すごい借金があって、働かないといけない状況だったんです。なかなか波乱万丈の人生だと思います。
長女さん:
50代まではさまざまな免許を取得することに挑戦していました。仕事に必要だからというのではなく、興味が湧いたら勉強して資格を取るのが生きがいのようでした。宅建や社会保険労務士に何度もチャレンジして、不合格が続いても諦めずに勉強を続けていました。60歳の時に英語にハマり、NHKのラジオを聴いて学び、8年後には洋画が字幕なしで観られるほどになっていました。68歳の時に屋久島へ戻り、それから88歳までの20年は夫婦で自給自足に近い生活をしていました。
88歳の時に、健康診断で不整脈を指摘され、その後も元気にやっていくために不整脈根治のためのカテーテルアブレーションを受けましたが、それから脳梗塞、がんと立て続けに病気になってしまい、父も道半ばで悔しかったと思います。
随分いろんなことをやって来た人生だと思います。それに付き合ってきた母も肝が座っていますよね。母はすごく天然なので、父のやることにあれこれ口を挟んだり深く考えたりせず、一緒にやっていけたんだと思います(笑)

屋久島でのセカンドライフについて教えてください。
奥さん:
結婚した年の12月にこぢんまりした家を大工さんに建ててもらい、主人が68歳の時に屋久島に戻ってから、そこに住みながら自分たちで大改修しました。屋根の瓦を主人が1枚1枚滑り落として、私は瓦を割って別の場所に運びました。家の間取りは全部変えて、設計図も書かずに、お風呂をここに持ってこようとか、台所はここにしようとか、思いつくままにやっていました。窓を外してこっちからこっちに移してみるなど、使えるものは再利用しました。主人が東京にいる間に電気整備士なども取得していたので、全部できちゃったんです。庭に五右衛門風呂も手掛けてくれて、それは私のお気に入りでした。
私はそんなに屋久島に戻りたいという願望はなかったのですが、夫と一緒にいることが一番大事で、どこに住むかは問題じゃなかったんです。
長女さん:
父は、山の手入れ、畑作りにも勤しんでいました。畑にはポンカン、タンカン、ハッサク、バナナ、ドラゴンフルーツ、ブドウ、レモン、椎茸、野菜などが溢れんばかりに実り、自然の中にあるフルーツガーデンのようでした。
父から、私が夫ともにやっている京都の商店で屋久島産の物を売ったらどうだと提案されました。父も素直じゃないので、「売ってくれ」ではなく、「お前がいながら売れないなんてないだろう」と挑発され、絶対に売ってやろうと思いました。父のバナナを商店に並べるようになり、近所の牧場で屋久島バナナシェイクが大好評だとお声をいただき、父のバナナのファンが増えてきたところでした。いまでも屋久島に行った時に収穫できたら持ってきてね、と近所の方から言われています。外国産のバナナとは全然甘さが違うんですよ。香西先生にも食べてもらいたかったです。
また、85歳からツバキ油を屋久島の名産にしたいと、椿の木の山を手入れしたり、新たに椿を植えたりして、実から油を抽出する機械も買いました。やっと2Lくらい試作品が作れたところだったんです。

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月