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体験談 2025.12.22

体験談vol.29 川本義之さん(仮名)の次女さん<中編>

体験談vol.29 川本義之さん(仮名)の次女さん<中編>

・患者さんの病名:胃がん
・患者さんの年齢:91歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで1年8ヶ月
・訪問診療を受けた期間:1年3ヶ月
・家族構成:次女さんと2人暮らし。都内に長女さん家族在住
・インタビューに答えてくださる方:次女さん(良子さん)
・インタビューの時期:逝去から7ヶ月後

義之さんと最愛の奥さんの出会いについて教えてください。

義之さんは住み込み修行の後、時計店からの派遣で池袋の西武デパートで修理工をやっていました。時計店と同じフロアに万年筆売り場があり、そこの人とよくお昼を食べていたそうです。
義之さんが独立して自分の時計店を開こうと思った時に、働き手としてお嫁さんが欲しいなと思い、親しかった万年筆売り場の方に誰か紹介してくれと言って、当時新入社員だった3歳下の母とお見合いをして、父が28歳くらいの時に結婚しました。

母は長野出身で、母の姉と一緒に名古屋の紡績工で働いていたそうです。一生懸命に働いていたらリーダーに推薦されたそうですが、母はリーダーになるのが嫌で、大工の兄を頼って上京し、紆余曲折あって親戚の紹介で万年筆の会社に就職したそうです。母は一生懸命頑張る真面目な人だから、父の見立ては間違っていなかったですね(笑)

義之さんと奥さんはどんなふうに働いていましたか?

義之さんは28歳で時計店を開き、亡くなるまでの60年以上やっていました。最初は駒込で店を構えたのですが、私が喘息持ちだったので排気ガスが少ない練馬に店を移しました。練馬に移転する際にローンを組んだところ、ローンを返すのに90歳くらいまでかかってしまう計算になり、当時は時計店も以前ほど儲からなくなってきていたので、どうにかしなくてはとなりました。新聞で時計工のアルバイトを見つけ、自分の時計店をやる傍ら、アルバイトにも出かけていました。時計店の隣で母がタルボンという名前の洋食屋を開き、母は洋食店をやりながら、時計店にお客さんが来たら対応していました。父は日中はアルバイトに出かけ、帰ってきてから夜な夜な自分のお店のお客さんから預かった時計を修理していました。激務だったと思いますが、父はローンを残さず、返し切りました。

母は洋食店を26年続けました。よくやっていたと思います。母は縫い物や編み物が好きで、気に入った布の切れ端を集めておいて、それを縫い合わせて帽子やワンピースを作ってくれました。母の遺した端切れはまだ家にたくさんあるのですが、捨てられませんね。

時計とメガネ

義之さんの奥さんが亡くなられた時のことについて教えてください。

母は父が亡くなる6年前に他界しました。2月12日が母の誕生日だったのですが、誕生日を迎える直前の2月1日のことでした。亡くなる前の日には、結婚して家を出ていた姉も来ていて、一緒に夕飯を食べました。お風呂上がりにいつも母と話をしていたのですが、その日は母は疲れたから早く寝ると言いました。翌朝、いつもは早起きな母が起きてこないのでおかしいなと思いましたが、いつも眠れないと言っていた母が、寝室をのぞいたらよく眠っているように見えたので、たまには寝かせてあげようと、しばらくそっとしていました。それでも起きてこないので様子を見に行くと、体はまだ温かかったのですが、息をしていませんでした。救急車を呼んで、心臓マッサージをしてもらいましたが、間に合いませんでした。
その2年前に急に立てなくなって救急車を呼び、入院して検査を受けたのですが、原因がわかりませんでした。自然に歩けるようになったので、そのまま退院し、普通に過ごしていました。いま思えば、心臓に何かあったのかもしれません。
それまで家のことは全部母がしてくれていたので、悲しむ間も無く日常に追われて大変でした。義之さんは家事は何もできなかったのですが、それから何年もかけて風呂掃除とゴミ捨てと皿洗いができるようになりました。

義之さんは母のことが本当に大好きだったと思います。母が亡くなった時は、ものすごく落ち込んでいました。母の生前は、毎週日曜日はふたりで散歩に行き、旅行にもよく行っていました。そういうふうに一緒に過ごす相手がいなくなり、寂しそうにしていました。
でも、しばらくすると立ち直り、元気そうに振る舞っていました。

良子さんから見て、義之さんはどんな方ですか?

仕事に対しては真面目で、一生懸命で、一途な人で、誇れる父でした。義之さんは時計店を営んでいましたが、私が小さい頃はとても繁盛していて、電池交換や修理でひっきりなしに地元のお客さんが来てくれていました。
忙しい割には、遊園地や動物園や公園やデパートの屋上などに連れて行ってくれて、子煩悩な父でした。義之さん自身が子どもっぽいところがあるから、子どもと遊ぶのが好きだったみたいですね。何をやるにしても、わざと負けるなんてことは絶対にしませんでした。指相撲なども本気でやるので、全然勝てなくて面白くなかったです(笑)
怖い一面もあって、小さい頃、悪いことをすると怒られて押し入れの上の段に入れられ、突っ張り棒をして閉じ込められました。昔は癇癪も起こしやすかったです。お店に理不尽なお客さんが来た後でむしゃくしゃして物に当たって壊したこともありました。でも、歳をとるにつれて丸くなって、主張ははっきりするけれど、雷を落とすみたいに怒ることはなくなりました。
あと、義之さんはこたつの中でオナラをするんです。私たち家族も一緒に入っている時に、黙ったまますごい音を立てて臭いオナラをしていました。ひどいですよね(笑)
義之さんはいつも私のことを心配してくれて、何歳になっても「収入と支出をちゃんと計算してやらないとダメだぞ」と言われ続けました。

私は生まれたとき、お尻の穴が開いておらず、手術を受けたそうです。また、手の親指は生まれつき変形していました。それがあって、両親は私に対して申し訳ないという思いがあったようです。私には障害者として生きる道も、健常者として生きる道もあって、どちらの方がよいだろうかと考えた結果、健常者として育てようと決めたそうです。障害を理由に私の人生を狭めたり、私がそれに甘えて生きたりしてしまうのはダメだろうと思ったそうです。
とはいえ、私は十分甘やかされて育ちました。姉から聞いた話によると、私は小さい頃好き嫌いが多くて、食パンの白いところだけを箸で摘んで食べさせてもらっていたそうです。姉はずるいと思っていて、私が食べ残すと黙ってそれを取って食べていたそうで、小さい頃は太っていました(笑)

義之さんが胃がんになってからの関係を見ていたら、すごく仲の良い親子だと思われるかもしれませんが、それまではそこまで父のことを想ってはいませんでした。でもなぜか、病気になって介護が必要になると、天使のような慈悲深い優しいひとになってしまって、どうしたんでしょうね。

良子さんは生まれた時からずっと、義之さんと60年以上一緒に過ごしているのですか?

一度だけ両親と離れて暮らしたことがあります。大学卒業後の10ヶ月間だけですが。私は大学時代も絵を描いていて、絵のモデルをしていたある女性の生き方がすごくかっこよくて惚れ込んでしまい、その方が石垣島に行くというので追いかけていきました。その方は沖縄で麻織りを習っていて、私は絵を描いて過ごしました。
私は小さい頃から指に装飾義手をつけていたのですが、石垣島で過ごしている時にその方から「そんなの取っちゃえば」と言われて、その通りだなと思って外しました。東京に戻ってからもつけませんでした。その方は沖縄からネパールに行き、染色や織物など自分の興味の赴くままに色々やっていたみたいです。何年か前にがんで亡くなったと聞きしましたが、出会えてよかったと思います。

女性の後ろ姿

絵を描くことは良子さんにとってどういうことですか?

私が絵を始めたのは、小学生の頃です。お絵描き教室に通っていて、そこで褒められて嬉しくなって続けていました。私は絵で生きていけたらいいなと思っていたのですが、画家として生きる覚悟がつかないまま、仕事をする傍らに絵を描き続けて現在に至ります。これからはもっと本腰を入れて絵に取り組んでいきたいなと思っています。

私にはどうしても描きたいものがあります。夢でよく見る場所で、地図を描けるくらいその場所のことは覚えています。いろんな場所に繋がっている、不思議な場所です。その夢を絵にしたいと思っているのですが、いざ描こうとすると、どう描いていいかわからなくてずっと考えています。最近気づいたのですが、その場所とこの家は雰囲気が似ています。この家は私の人生や大切なものが詰まっている、大切な場所だからかもしれません。この家をスケッチしていたら、夢の場所に近づけるんじゃないかなと思います。
あと、小学3年生くらいまで住んでいた駒込の家があったところも、いまでも近くに行くと胸がきゅーっとなるような、戻りたい場所です。その場所もスケッチすると夢の入り口のように感じます。
絵を描くことが、父をはじめ、お世話になった人たちへの恩返しになるのかなと思っています。

義之さんは自分が亡くなった後のことや遺言書のことも何度も話題にされていましたが、そういう話を良子さんはどんな気持ちで聞いていたのですか?

当時は、義之さんがいなくなってからのことは、あまり想像できませんでした。だって、生まれた時からほとんどずっと一緒にいて当たり前の存在でしたから。父がそこまで私のことを案じてくれていることに胸がいっぱいでした。

ひとりになったら好きなことをして暮らそうと、ポジティブに考えていました。特に休職して介護をしていた3ヶ月間は、少し目を離しただけでも父が私を探して家を飛び出したり、大声で読んだりしていて、全く自分の時間が持てなかったので、自由になりたいという気持ちも少しはありました。
でも、実際にそうなってみると、ひとりってこういうことなんだなと。ご飯ひとつでも何を食べたらいいんだろうって思ってしまいます。
あと、いまは家を留守にするのも不安です。以前は父がいたから安心して出かけられたし、帰って来られたのですが、出かけている間に泥棒が入っていたらどうしようと思うし、帰宅して玄関を開けるときにも緊張感があります。電話を取るときにも用心するようになりました。病気になってからでさえ、父は私を守ってくれる存在だったんだなと、いまになって感じます。

手をあわせる女性医師

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月

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