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体験談 2025.12.22

体験談vol.29 川本義之さん(仮名)の次女さん<前編>

体験談vol.29 川本義之さん(仮名)の次女さん<前編>

・患者さんの病名:胃がん
・患者さんの年齢:91歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで1年8ヶ月
・訪問診療を受けた期間:1年3ヶ月
・家族構成:次女さんと2人暮らし。都内に長女さん家族在住
・インタビューに答えてくださる方:次女さん(良子さん)
・インタビューの時期:逝去から7ヶ月後

女性医師とマスクをつけた看護師

川本義之さんは時計店を50年以上に渡って営んでおり、その細やかで丁寧な仕事ぶりから、遠方から部品交換に来るお客さんもいました。趣味は散歩で、毎日1時間以上歩いているため、90歳に近づいても筋骨隆々で、20歳は若く見られました。
義之さんが86歳の時に最愛の奥さんが突然この世を去りました。心の拠り所を失った義之さんは食事も喉を通らず、家のことは奥さんに頼り切っていたので日々の生活すら大変な状態でしたが、次女さんと支え合って生活を立て直し、それから何年もかけてゴミ捨てや洗濯などの家事を習得しました。

89歳の健診までは全く何の異常もありませんでしたが、90歳になる年の4月から急に食欲が落ちました。近くの診療所で点滴を受けながら様子を見ていましたが、7月の健診で貧血の進行を指摘され、病院でCT検査を受けたところ、進行胃がんが強く疑われました。胃カメラを勧められましたが、義之さんは入院が嫌で検査を拒否しました。その後さらに貧血が進行し、同年12月に再度病院を受診しましたが、胃カメラを受けて確定診断に至ったとしても、本人が治療を希望していないことから、検査はせずに経過観察の方針になりました。本人にははっきりと「がん」だとは伝えられていませんでした。病院からの勧めで当院からの訪問診療を開始しました。

当院初診時点では自覚症状はあまりなかったものの、徐々に食欲低下、心窩部不快感、活動量の低下、下肢浮腫の増悪が見られ、貧血もだんだん進んでいきました。義之さんはとても我慢強く、体調が悪くともお客さんのために少しの時間でも時計店を開けようと奮闘しました。
当院では症状に合わせて、心窩部痛に対する医療用麻薬の投与と、貧血の進行に対して輸血、浮腫に対してアルブミン製剤や利尿剤の投与を行いました。徐々に貧血の進行が早くなって輸血の回数が増し、91歳の年の7月からは週1回、12月からは週2回輸血を行なって、やっとHb6.5〜7.5g/dlを維持できている状態でした(男性の基準値はHb13〜16g/dl程度)。

時計店は91歳の11月まで1人で経営していましたが、12月からは体の衰弱とともに忘れっぽさや記憶違いが生じてお客さんとのやり取りがうまくできなくなり、次女さんや長女さんが接客を手伝ってくれました。ご家族は「義之さんはお店が生きがいだから、少しでもやらせてあげたい。お金をいただいたのを忘れたり、預かったものを無くしたりすることはあるけれど、壊れた時計を見せたらひょいひょいと直しちゃうんです。そういうのは体が覚えているのですね」とおっしゃっていました。翌年の2月まで週に数時間はお店に出ていましたが、疲労感が強く、抑うつ症状も目立ってきて、徐々に眠って過ごす時間が長くなっていきました。3月初旬からは起きている時間の7、8割は気分が落ち込んでいる状態で、「もう死にたい」「どうしていいかわからない」と言う発言が延々と続き、数年前に奥さんが亡くなったことを忘れていてショックを受けたり、次女さんが3階に行って姿が見えなくなっただけでパニックになり、次女さんの名前を叫びながら徘徊してしまったり、ふと死にたい衝動に駆られて線路のところまで歩いて行ったりしていました。抗うつ薬を調整し、そういった発言は減りましたが、傾眠傾向は強まりました。次女さんは12月から仕事を休んで付きっきりでそばにいてくれていましたが、介護疲労も限界にきていました。

ちょうどレスパイト入院(介護者の休息を目的とした一時入院のこと)を予定していた3月19日のことです。義之さんは前日までは見守りで歩いてトイレに行けていたにもかかわらず、その日の朝には昏睡状態で、全くベッドから動けない状態となっており、急遽入院を取りやめました。長女さん、次女さんは「やっぱり病院には行きたくなかったんだね。家で看取ろう」と覚悟され、義之さんのそばにいてくださりました。おふたりの覚悟を聞いて安心したのか、一時sBP70mmHg台まで下がっていた血圧はsBP110mmHgまで復活しました。3月19日夕方にうなされたように起きあがろうとしていましたが、医療用麻薬と抗せん妄薬、鎮静剤の坐剤や注射剤を使用したところ、その後は穏やかに眠って過ごしました。お孫さんも仕事終わりに来てくれて、ご家族みんなと対面した後、3月20日早朝に次女さんが口を拭ってくれている間に静かに息を引き取られました。

次女さんは「一昨日もお店を1時間開けたんですよ。昨日は明日入院だからと自分で髭を綺麗に剃っていました。直前までトイレにも自分で行って、本当にすごいと思います。いいお父さんでした」と目に涙を浮かべ、義之さんの生き方を讃えていました。
義之さんの逝去から約7ヶ月後の秋晴れの日に、次女さんに義之さんへの思いと在宅介護の経験について語っていただきました。

最近はどんなふうに過ごされていますか?

12月から義之さん(お父さん)の介護のために休職していたのですが、いつまで介護が続くかわからなかったのでそのまま一旦退職しました。義之さんが亡くなって3ヶ月経ち、事務処理や家の片付けなども少し落ち着いたので、6月から元の職場に復帰しました。以前はフルタイムで働いていたのですが、現在は午前だけの勤務になったので、午後は家のことをしたり、絵を描いたりして過ごしています。勤務時間は減ったのに、なんだかんだやることはあって慌ただしい日々です。

ようやくひとりの生活に少しは慣れてきましたが、義之さんとふたりで住んでいた家にひとりでいるので、7ヶ月経ったいまでも少し変な感じがします。家が広く感じますし、義之さんの不在に違和感を覚えます。義之さんの病気がわかってからは義之さんが食べたいもの、食べられるものを考えて献立を作っていましたから、自分のためとなると何を食べたらいいのかわからなくなりました。義之さんは昔から同じものを2日連続で絶対に食べない人で、私も母に倣って毎日違う献立を考えるようにしていました。生前はわがままだなと思っていましたが、ひとりだと何か作ると食べ切るのに2、3日かかってしまうので、食べ飽きてしまい、義之さんの気持ちがわかる気がします。

冷蔵庫に貼られたメモ

義之さんはどんな幼少期を過ごされたのでしょうか?

義之さんはきょうだいが7人くらいいるのですが、下の弟は生まれてすぐ腸チフスに罹り、母親が付き添いで病院に行っていたので、義之さんの面倒をみる人がおらず、隣の酒屋に預けられて、3歳から小学校に上がるまでそこの家の子のように育てられたそうです。酒屋のご夫婦は子どもがいなかったから、義之さんのことをすごく可愛がってくれたそうで、欲しがるものをなんでも買い与え、食べたいものを食べさせてくれていたようです。そんなふうにひとりっ子のように育てられたせいで、生家に戻ってからが大変だったみたいです。小学生になってからいきなりきょうだいと一緒になり、しかも7人の真ん中らへんだったから、それまでのわがままが何一つ通らなくなりました。
いまは義之さんのきょうだいはみんな亡くなっていて、義之さんが最後のひとりでした。それでも、寂しそうな様子はなく、「私はきょうだいの中で一番長生きだからすごいんだ」と言って、喜んでいましたね。

子供が描いた絵

義之さんは戦時中どんなふうに過ごしたのでしょうか?

戦争のせいで一家離散になってしまっていて、東京大空襲の時、義之さんの父親や弟は集団疎開していて、母親と一番下の妹は家にいて、義之さんは少し離れたところにいたそうです。母親と妹が防空壕に逃げ込もうとした時、中は人でいっぱいで、母親は我が子を先に入れ、自分は入りきれず足が外に出たままになってしまい、足を負傷しました。その後病院に行ったけれど、同じく空襲で負傷した人で溢れかえっていて、化膿止めがすごく高価であと1本しかないと言われ、悩んでいるうちに最後の1本が無くなってしまいました。その足の怪我が原因で母親は亡くなってしまったそうです。義之さんは幼くして母親を亡くしているので、母親の愛情に飢えていて、優しい家庭を作りたいと思っていたんじゃないかなと思います。

義之さんは終戦の時12歳でした。中学を卒業した後、行くところがなく長兄夫婦のところに居候していました。きょうだいみんなで雑魚寝をしていて、義之さんは「僕は押し入れでいいよ」と言っていさせてもらったそうです。しばらくして働きに出ることになり、池袋の時計店に住み込みで働き始めました。時計の知識は何もないから、お掃除などから下働きをして学んだそうです。

男性看護師と女性の後ろ姿

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月

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