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体験談 2025.12.15

体験談vol.28 田中弘樹さん(仮名)の奥さん<前編>

体験談vol.28 田中弘樹さん(仮名)の奥さん<前編>

・患者さんの病名:S状結腸がん
・患者さんの年齢:46歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで3年8ヶ月
・訪問診療を受けた期間:4ヶ月半
・家族構成:奥さんと2人暮らし
・インタビューに答えてくださる方:奥さん
・インタビューの時期:逝去から2ヶ月後
・インタビュー同席者:池袋本町訪問看護ステーション 村島看護師

女性の手元

田中弘樹さんは美容師学校を出て上京し、弘樹さんが24歳の時に6歳年下の美代さんと出会いました。すぐに意気投合したふたりは、長い同棲生活を経て、弘樹さんが38歳の時に入籍し、夫婦水入らずで過ごしていました。

43歳の年の12月に腹痛と便秘で病院を受診したところ、S状結腸がんと診断されました。年内に狭窄部位にステントを留置し、翌年1月に腹腔鏡下S状結腸切除術を受けました。術後化学療法を勧められ、2月から開始しましたが、同年9月に吻合部再発を認めました。主治医からは化学療法を2nd line1に変更して、がんが縮小したら再手術を受けることを勧められ、セカンドオピニオン外来も受診して検討していた矢先、10月に下血があり、緊急入院となりました。しかし、出血源は特定できず、その後も一度出血があったもののすぐに止まったため、12月から2nd lineの化学療法を開始しました。

6ヶ月後のCTで腹膜播種の増大があり、腹痛を自覚するようになり、45歳の年の7月に腸閉塞で入院しました。それからの4ヶ月は、毎月腸閉塞を繰り返して入院が続き、弘樹さんは腸閉塞になることを恐れて大量の下剤を飲むようになり、1日9回くらいの下痢が続いていました。化学療法は3rd line、4th lineに挑みましたが効果が見られず、46歳になる年の2月に主治医から5th lineに進むか、治療を中断して療養するかを選択するよう言われました。その頃弘樹さんは、3日かけて茶碗蒸し1個を食べるのがやっとの状態になっており、その少量の摂取でも腹痛に苦しんでいて疲労困憊しており、一旦落ち着いて考えることを希望されました。腰痛と食欲不振で入院しましたが、入院生活は弘樹さんにとってつらく、症状はとれていないものの、9日後に退院しました。

退院後、3月から当院からの訪問診療を開始しました。しかし、その後も腹痛が日に日に強まり、医療用麻薬の増量を行っても症状が緩和できず、3日後に別の病院に入院し、腸閉塞に対して、空腸と横行結腸をつなぐバイパス術を受けました。術後に感染症を発症して入院は1ヶ月以上に及びましたが、5月8日にようやく退院できました。

退院直後は腹痛が持続していましたが、数日で軽減し、5月12日頃から急に食欲が増しました。我慢ができないほどの食欲で、1食で1.5人前程度を食べ、それでも空腹に耐えられず、奥さんに隠れて冷蔵庫を漁ったこともありました。6月5日までは排便もよく出ていたため、腸閉塞再発のリスクを説明しながらも、長い間食べられなかった弘樹さんの気持ちに配慮して、食べることを容認していました。連日のようにご友人がお家に来てくれて、5月中旬〜6月5日まではとても良い時間を過ごせていました。また、弘樹さんの希望で化学療法も再開しました。

6月6日から38度台の発熱があり、病院を救急受診しましたが、検査上異常はありませんでした。しかし、その後も39度の発熱が続き、6月7日夜にアイス、キムチトマト、炙りイワシを食べた後から強い腹痛、嘔気嘔吐が出現しました。腸閉塞の再発が疑われ、絶食で経過を見ていました。6月11日に病院を受診した際に腸閉塞と診断され、入院となりました。6月23日に腸管減圧と排液のための胃瘻を作り、6月26日に退院しました。

退院時には今までよりも一層衰弱が進んでいましたが、奥さんの手を借りて自宅の階段を上ることができました。弘樹さんは幾重にも続いた入院生活に疲れており、今後は通院や抗がん治療よりも、家で奥さんと過ごす時間を大事にしたいとおっしゃっていました。
7月初旬から急速に状態が悪化し、肺病変はないものの慢性的な呼吸困難を訴えるようになりました。弘樹さんは顔を顰めて焦点の合わない眼を虚空に向け、「くるしい」と念仏を唱えるように呟き続けていました。日ごとに息苦しさが増悪し、医療用麻薬を増量しても緩和できず、鎮静以外の方法での苦痛緩和は困難と考え、7月11日から鎮静剤の持続点滴を開始しました。しかし、それまでも眠剤を多く使用していた影響か、薬がほとんど効かず、7月15日から別のタイプの鎮静剤の座薬を開始しました。奥さんは不眠不休で弘樹さんの介護を続けていました。

7月20日頃からようやく苦しさが軽減し、1日に数回くらいは起き上がって水を飲んだり、奥さんと会話したりして過ごしました。状態を確認しながら、少しずつ体についた管を減らして、身軽な状態にしていきました。
徐々に眠って過ごす時間が長くなり、飲水量も減っていきましたが、7月29日から「ラーメンが食べたい。お願いします。ラーメンください」と言い出しました。せん妄かと思いましたが、ちゃんと会話ができていて、奥さんと「こんな状態でまさかラーメン!」と笑いました。7月30、31日にはアイスを食べましたが、ラーメンのスープを飲むには至らず、起き上がることはほとんどなくなっていました。8月初旬の朝から努力呼吸となり、その日の夜に奥さんの見守る中、静かに旅立たれました。
弘樹さんは最後まで諦めず、渾身の力で生きよう、生きようとされていました。奥さんは病気が診断されてからずっと弘樹さんに寄り添い続け、最期の1ヶ月間はほとんど寝ずに看病されていました。

弘樹さんのご逝去から約2ヶ月後の、弘樹さんの誕生日の数日後に、奥さんに弘樹さんへの想いと介護の経験について語っていただきました。

1がんに対する治療薬は一般的に、ガイドラインに沿って、そのがんに対してより効果が高い薬から使っていきます。最初に行う薬物療法を1次治療(1st line、ファーストライン)と呼び、効果がなかったり副作用が出たりすると、体調を見ながら2次治療(2nd line)、3次治療(3rd line)と進めていきます。がんの種類や病理結果により、何次治療まであるかは異なります。

髪の長い女性の後ろ姿と笑顔の女性医師

最近はどんなふうに過ごしていますか?

最近はずっと家にいますね。週1回くらいは出かけていますが、それ以外はただひたすら家でぼーっとしています。昔のことや闘病中のことを思い出して、考えてしまうせいか、眠りが浅く、夜中に目が覚めてしまうことも多いです。あの時こうしておけばよかったなとか、後悔がいっぱいありすぎて。例えば、もともと夫は不眠症で眠剤を飲んでいたのですが、闘病中には眠剤を使っても眠れない日が多くなり、夜中にも1時間おき、多い時には10分おきに「みよちゃん」と呼ばれて、私もいつも寝不足でした。寝不足でイライラしてしまい、夫にも冷たく当たってしまって、いま思うとなんであんな対応をしちゃったんだろう、もっと優しくできたんじゃないかと自分の行動を悔やんでいます。

奥さんにとって弘樹さんはどんな方でしたか?

出会ったとき私は18歳、夫は24歳で、それから22年間一緒にいました。人生で一緒にいる時間の方が長いんです。付き合いが長すぎて、居て当たり前の存在でした。
語るほどの出会いではなかったですが、それでも、一緒にいるようになってからは何をするにしても、いつも私のことを考えてくれていました。そういう夫のことが好きでした。お互い短気で、口も悪かったし、元気な頃はちょっと手が出ちゃうような激しい喧嘩もよくしていました。私はあまり結婚願望がなく、何度目かのプロポーズでようやく結婚しました。知り合って間も無く一緒に住んでいたので、結婚してからも特に関係性は変わりませんでした。

弘樹さんの趣味はなんでしたか?

筋トレと自転車が趣味で、自転車でかなり遠くまで行っていました。私は興味はなかったのですが、付き合わされて一緒に自転車で出掛けていました。
あと、食べることが好きで、食べ歩きもよくしていました。一番好きな食べ物はラーメンですね。外食の時は何軒も梯子して、焼き鳥を食べた後でステーキ屋さんに行って、そのあとお寿司、なんてこともありました。お酒が入っているので、胃がバカになっていて、テンションが上がってついたくさん注文してしまうようでした。ふたりで飲んで、他愛もない話をするのがとても楽しかったです。

髪の長い女性の後ろ姿とマスクをつけた女性看護師

弘樹さんのご両親はどんな方でしたか?

夫のお母さんは、夫が中学1年生の時にがんで亡くなったそうです。まだ30代でした。その後は祖父母と暮らしていて、おばあちゃんがお母さん代わりだったみたいです。
夫のお父さんはだいぶ前に喉のがんにかかりましたが、がんは大人しくしてくれているようで、いまも経過観察中だそうです。お父さんのがんが見つかった時には、夫はすでに上京していたので、盆暮に顔を見にいくくらいでした。いまはお父さんは夫の妹と同居していて、妹がいるから安心だと夫はよく言っていました。

弘樹さんが奥さんの他に大事にされていた方はどなたでしょうか?

家族と友達のことをとても大事にしていました。妹とふたりきょうだいで、離れて暮らしていましたが、よく連絡を取り合っていました。
地元の友達や美容学校の同級生のことも大事にしていました。上京してから長いのですが、地元の友達は幼少期から高校まで一緒に育ってきたので、格別な思いがあるようです。闘病中にもよく見舞いに来てくれました。美容学校の同級生は卒業して以来会っていなかったようなのですが、昨年11月の同窓会で20年以上ぶりに再開したのです。当時も腸閉塞で何度か入院した後でしたが、食べ過ぎたり、飲み過ぎたりするとお腹が痛くなるけれど、動くことはできる状態でしたので、故郷まで行って同窓会に出席することができました。再会してからはよく連絡を取り合っていて、最後の退院後の自宅療養中にも2週間で20名以上の方々が会いに来てくれました。いろんな人が訪ねてきてくれると、夫もエネルギーをもらって少し元気が出るようでした。

がんと診断された時のことを教えてください。

初めに出た症状は便秘でした。もともと快便な方でしたが、便が出なくて何かおかしいと思って近くのクリニックを受診したら便秘症と診断され、下剤を処方されました。下剤を飲んでも便が出なかったので、別のクリニックを受診したのですが、そこでも便秘と言われ、違う種類の下剤を処方されました。それでも排便が見られず、また違うクリニックを受診し、そこですごく強い下剤を処方されて、「これでも出なかったら大事だから、明日の朝一番で受診してください」と言われました。やはり出なくて、翌朝受診したらすぐに紹介状を書くから大きい病院に行ってくださいと言われ、受診したら、おそらくがんだと言われました。その時はそんなに大事になると思っていなかったので、夫はひとりで受診していました。その後、大腸カメラをして診断がつきました。

がんと診断されたのはクリスマス当日でした。見つかってから、自分たちで気持ちを整理したり、治療方針を考えたりする暇もなく、すぐに入院して早急に手術をするよう勧められました。年末年始は病院で過ごし、年明け早々に手術を受けました。手術を受けた病院ではとてもよくしてもらいました。いい先生やいい看護師さんに恵まれ、急なことでしたが精神的にも支えてもらい、安心して任せることができました。ただ、その後の抗がん剤などの治療を受けるに当たっては、がんの専門病院の方が症例数が多く、治療の選択肢の幅も広いだろうと考えて、転医を決めました。

がんにまつわる本

多くの医師と関わってきましたが、弘樹さんはどんな医師を望んでいましたか?

夫は40代でがんになり、わからないことだらけで、医師以外に病気のことを相談できる相手もおらず、不安でいっぱいでした。だから、ベストな治療法を提案していただきたいのはもちろんですが、それだけでなく、夫の気持ちを察してくれて、悪い知らせを伝える時の言い方にも配慮してくださるような医師を望んでいました。

大きい病院では、医師もたくさんの患者を診ているので仕方ないとは思うのですが、流れ作業のように感じてしまうこともありました。診察の時間は短く、医師は忙しそうで、威圧感を纏っており、聞きたいことも聞けない雰囲気がありました。厳しい病状だとは理解していますが、はっきりものを言う先生もいらっしゃいました。それまでほとんど病院にかかるようなことはなく、夫も私も医師とはこういうものだという免疫もなかったので、医師の物言いに面食らってしまうこともありました。はっきり言ってほしい患者さんもいると思うので、医師と患者も相性が大事なのだなと感じました。
でも、穏やかで夫に寄り添ってくださる先生もいました。夫の困り事に耳を傾けてくれて、薬剤の調整をしてくださいました。がん自体の治療をすること、不眠などの症状が取れるように薬を調整してもらうこと、不安な気持ちを聞いてもらうこと、仕事ができないなど病気にまつわる生活面での支援の情報をもらうこと、これからどうなるかを、不安を煽らずに説明してもらうこと、そのどれもががんの治療においては大事だったなと思います。

私の母はケアマネジャーで、夫が抗がん治療から緩和ケアに移行するタイミングで、介護保険のことや福祉用具は何を借りたらよいかなどを教えてもらいました。母は病状説明にも同席してくれたので、心強かったです。
夫は抗がん剤を始めた当初は割と元気だったので、通院もそこまで負担ではなかったのですが、腸閉塞を繰り返したり、抗がん剤の副作用が出たりしてだんだん弱っていきました。眠剤や鎮痛剤などの調整や、日々の生活や病状の相談をするためには、訪問診療はもう少し早い段階で依頼しておいてもよかったかなと思います。

正座する女性の手元

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月

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