体験談 2025.09.16
体験談vol.22 河周子さん本人<前編>

・患者さんの病名:リウマチ性多発筋痛症、神経因性膀胱ほか
・患者さんの年齢:95歳
・訪問診療を受けている期間:1年11ヶ月
・家族構成:独居。長男さん家族が近隣在住、長女さん家族が外国在住
・インタビューに答えてくださる方:河周子さん(本人)
・インタビューの時期:訪問診療開始から1年11ヶ月後
河周子さんは95歳とご高齢ですが、 横文字のオシャレな料理を作ったり、スマホに挑戦したりする、若々しく聡明なご婦人です。身の回りのことは全てご自身でできており、時々新宿のデパートにもお買い物に出かけます。10年前にご主人を看取った後、築40年になる一軒家でひとり暮らしを続けています。ご自宅は長男さんが建築学科の課題で設計し、工業デザインをやっていたご主人が長年手を加えてきた、思い出の詰まったお家です。
70代までは白内障等の疾患はありましたが、大病を患わずに過ごしていました。83歳の時にご主人の介護中に腰椎圧迫骨折を受傷しました。また、87歳の時にビルの階段から転落して外傷性くも膜下出血、左上顎骨骨折、右上腕骨頸部骨折、左橈骨遠位端骨折をきたし、2か月入院療養し、要介護2になりました。しかし、幸い大きな後遺症は残らず、ひとり暮らしを続けられていました。
91歳の時に膀胱炎を契機に神経因性膀胱という排尿がうまくできなくなる疾患に罹患し、膀胱留置カテーテルを挿入していましたが、数ヶ月で外すことができました。
92歳の時に突然あちこちの痛みと倦怠感が出現し、リウマチ性多発筋痛症と診断され、ステロイドの内服が開始になりました。リウマチ性多発筋痛症とは、リウマチのように関節痛や筋肉痛をきたす疾患で、そのほかにも発熱、抑うつ、食欲低下などを伴うことがあり、いまのところ原因がわかっていない疾患です。河さんの場合は、ステロイドの効果で痛みは軽減しましたが、その後も内服の継続が必要でした。
93歳の時に小腸炎で5日間入院した後、体力の衰えを自覚し、ケアマネジャーの勧めもあって、訪問診療を開始しました。
それから1年11ヶ月の間に、リウマチ性多発筋痛症の状態に合わせてステロイドの量を増やしたり減らしたりしてきました。河さんは天候や気温に体調が左右されやすく、不眠や倦怠感、食欲低下、胃痛、気分の落ち込みなど、さまざまな症状が時折出現しましたが、日曜日以外はほとんど毎日看護師や療法士やヘルパーなどが訪問する予定になっていたので、誰かが河さんの変化に気づいて情報共有することで、迅速に対処でき、大事に至ることはありませんでした。95歳の年の4月には久々にご友人との温泉旅行を計画されており、それに向けてドキドキしながらも準備を進めています。春の兆しを感じる3月のある日に、河さんに人生について、インタビューさせていただきました。
河さんが生まれ育ったご家庭について教えてください。
父は無口で淡白で大真面目で数字が好きなひとでした。母は父とは対照的で、お喋りで歌が大好きで、末っ子だからか、寂しがりでひとりではいられない、依存傾向のあるひとでした。私たち子どもに対しては、愛情深くて、ベタベタに甘かったです。
私の性格は父譲りで、真面目で融通が効かないところを受け継いでいると思います。母のことは反面教師にしていて、あんなにひとに甘えたり、責任転嫁したりして、これだから明治の女は、と思っていましたが、私も歳を重ねて、母は母なりにいいところもあったと思うようになりました。
私は3人きょうだいの長女で、3歳下と5歳下の弟がいました。長女と言えど、母がそんなだから甘やかされて育ち、何もできない子だったのですが、私が小学5年生の時に父が応召されたのを機に俄然しっかりして、お姉さん風を吹かせるようになりました。弟たちからすると、偉ぶっていて嫌な姉だったでしょうね。
私は長寿家系かもしれません。父は101歳、母は92歳で亡くなりました。下の弟は心臓が悪く50代で亡くなり、上の弟はいま92歳で、心臓にステントを入れたり、すぐに病気だと大騒ぎしたりしているようですが、昨年老人ホームに入ってからは割と元気に過ごしているようです。
河さんの戦後の経験について教えてください。
私たちは神戸に住んでいて、終戦前の4月に千葉に疎開しました。東京まで列車で帰ってきて、そこから千葉の伯父の家までは父の知人が馬車を用意してくれていたのですが、東京は前日の空襲で全部焼けてしまっていて、隅田川にも真っ黒に焦げたひとたちがたくさん重なっていました。最初に見た時はドキンとしましたが、ひとりふたりと見ていくうちに、だんだん慣れてしまうものなんですね。でも、あの光景は一生忘れられません。
私の父は終戦時満州にいて、シベリアへ連れて行かれ、3年半くらいしてようやく日本に帰ってきました。いつ戻るかわからない父を待つ間、伯父が戦時中から引き続き私の面倒を見てくれていました。家族の食事を調達するのさえ大変な時に、食事を与え、学校に行かせてくれました。
終戦は私が16歳の時で、夏休み中の8月でした。夏休み明けに登校したら、女学校の校長先生が白々しく、「いままでの日本は間違っていました。これからは民主主義になります」と言い放ちました。それまで軍国少女だった私はとても衝撃を受け、多感な時期だったのもあり、「国に裏切られた。これからは大人の言うことなんて信じるものか」と心に誓いました。焼け跡の講堂で、ガラスのない窓から入ってくる風に吹かれながら、先生の指示に従って、教科書を塗りつぶして真っ黒にしていきました。
そんな経験をしているので、私は戦争反対者です。同年代の方々は亡くなってしまって、戦争の悲惨さを知っているひとがだんだん少なくなってきています。平和な時代しか知らないひとは日本もそんな経験をしてきたのだとは実感できないでしょう。戦争は二度と起きて欲しくない。この国の政治を決めるのはあなたたちの一票なのだから、ちゃんと選挙に行き、真剣に選んでください、というのが私の願いです。
女学校を18歳で卒業し、その後は栄養士の学校へ進学しました。当時、厚生省の公衆衛生院というところが、栄養士を育成しなければいけないと、無料の研修所を作ったんです。朝4時に起きて千葉から渋谷まで汽車で2時間以上かけて通うのを1年続けて、栄養士の免許を取りました。汽車の運賃は伯父が出してくれました。ちょうど卒業する頃に父が帰国して国の機関で働くことになり、私は父の世話をするために父と2人暮らしを始めました。なので、栄養士の資格をとったものの、栄養士としては働かなかったんです。3年くらい経って、弟が大学へ通うことになり、父と弟と3人で東京のいまの家に移り住みました。その頃、母は千葉にいて親の世話をして、家を守っていました。家族離散ですね、そういう娘時代でした。
ご主人のことについて教えてください。
夫とは遠い遠い親戚です。夫の父は転勤族ということもあり、彼は大阪で生まれた後、小学校まで大阪で育ち、その後は香港で暮らしていましたから、出会ったのは大人になってからです。夫とは10歳差で、結婚してから老後まで歳の差はそんなに感じなかったのですが、夫を介護するような頃になって、歳の差を痛感しました。戦争で教えられたことが夫の脳裏にしっかりと刻まれていて、それがせん妄の時に出てきたんです。私も戦争を経験していますが、戦地に行った夫は私とはまた別の、言葉にすることもできないような経験をしているんですね。
夫は男ばかり4人兄弟の三男です。大学生の時に学徒出陣で陸軍に入りました。夫の一番上の兄は若くして結核で亡くなり、後の3人は戦争へ行っています。一番可愛がられていた末っ子は特攻隊で、沖縄が終戦になるその日に特攻攻撃で亡くなっています。義母はそれは悲しかったでしょう。私は当時は若かったので言葉が足りず、同情しているつもりで夫に「あんな若い人に犬死にさせて」と言ったら、それはそれは怒られました。「お国のため、あなたのために命を落としたのに、犬死とは何事ですか」と。
結婚生活はどうでしたか?
夫は終戦時はジャワ島にいて、戦後1年半くらいして日本に戻ってきました。夫が帰国してから私と出会い、私が25歳の時に夫と結婚しました。当時だと遅い方で、25歳をすぎると行き遅れと言われていた時代です。たいていは女学校を出たらすぐ結婚していました。
夫は芸大の出身で、工業デザイナーの草分けのような仕事をしていました。彼の母は病弱で、彼はその世話をするひとを求めていたというのが本音だったのでしょう。だから、結婚当初からすぐ同居で、私は仕事をせずに家で看病していました。義母は結核で、きょうだいも長男も結核で亡くしているから、心も病んでいました。義母との間にはいろいろありましたね。義母は75歳で亡くなりました。結婚してから16年くらいずっと義母の介護をしていました。
結婚して2年目には子どもが産まれ、年子だったので、姑の介護と子どもの世話とでてんてこ舞いでした。洗濯機もない時代で、23時くらいに真っ暗ななか、家の裏でじゃぶじゃぶと手洗いで洗濯をして、手指にはいつも霜焼けができていました。
人生で何が大変だったと言われたら、戦争で食べ物がなかったのも、空襲で怖い思いをしたのもそうですが、16年間の嫁姑関係はつらかったです。ずいぶんしごかれました。でも、そんななかでも明治の知恵、大正ロマンというものがあって、義母の「あそばせ」言葉や、履きやすいように左右の草履を5cm開けて並べるなどの気遣いは、自然と私にも残っています。義母を訪ねてひとがいらしたら、狭い家なのに義母はすぐには出ていかず、まず私が応対して、その後しばらく待たせてから静々と義母が出迎えていました。当時はそんな義母の習わしに鼻持ちにならないと反発しましたが、いい面だけ習えば良かったのだといまになって思います。
イライラをいつも長男にぶつけてしまったような気がして、それは謝ろうと思い、遺言書にあの時はごめんと書いておきました。
編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月