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体験談 2025.08.05

体験談vol.19 林知枝子さんの長女さん<前編>

体験談vol.19 林知枝子さんの長女さん<前編>

・患者さんの病名:濾胞性リンパ腫、認知症、神経因性膀胱
・患者さんの年齢:75歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで8年10ヶ月
・訪問診療を受けた期間:約8ヶ月
・家族構成:長男さんと2人暮らし。長男さん、次男さん、長女さんが交代で介護。
・インタビューに答えてくださる方:長女さん
・インタビューの時期:逝去から約5ヶ月後

林知枝子さんの長女さん

知枝子さんは3人のお子さんを育てたパワフルなお母さんです。ぬいぐるみなどの可愛いものが大好きで、表情やリアクションが豊かで、チャーミングな方です。知枝子さんが65歳くらいの時に、知枝子さんのお母様が加齢により身の回りのことができなくなりました。知枝子さんは実家に戻ってお母様の介護をして、約4年後にお母様を看取りました。その間に知枝子さん自身の認知機能も少しずつ低下していました。

66歳頃から膀胱炎を頻繁に繰り返すようになり、CTなどの検査を受けた結果、67歳の時に濾胞性リンパ腫grade2と診断されました。腹腔内のリンパ節は複数腫れていましたが、痛みなどの自覚症状はなく、知枝子さんはお母様の介護を優先することを希望され、経過観察となりました。リンパ腫の診断から約3年後、お母様を見送った後に化学療法を2回行いました。効果はありましたが、認知症で治療継続の必要性を理解することが難しかったことや、化学療法のための入院中にせん妄を発症してしまったことから、その後は再び外来で経過観察されていました。73歳の年の冬に再びリンパ節が増大してきたため、外来で前回と同じ化学療法を受けましたが、今度は効果が全くなく、その後は治療を行わない方針となりました。

また、膀胱炎とリンパ腫の関連ははっきりしませんでしたが、膀胱の収縮力が弱く、膀胱内に尿が残ってしまうせいで感染を繰り返していると推測されたため、70歳頃に膀胱留置カテーテルを挿入されました。しかし、知枝子さんは管が入っていることが不快で落ち着かず、始終機嫌が悪くなってしまいました。73歳頃に自分でカテーテルを抜いてしまってからは、訪問看護師が定期的に導尿を行うことで対処していました。74歳の年の2月に腎盂腎炎を発症して動けなくなり、2週間入院しました。その際に、主治医から訪問診療を勧められ、退院後に当院からの訪問診療を開始しました。

退院の時点で知枝子さんは、ピックアップ歩行器を使って自宅の中はなんとか自分で動ける状態で、トイレに自分で行くことができるものの、尿意があまりなく定期的にトイレに行くよう促す必要がありました。食事は自分で食べることができますが、もともと偏食で、その頃義歯が合わなくなっていたこともあり、食事量が減ってきていました。認知症でイライラしてしまうこともありました。それでも、ご家族の献身的な支えにより大きな問題は生じず、3ヶ月くらいは病状の変化もなく、落ち着いて過ごせていました。

6月10日頃から息苦しさは自覚していないものの、酸素飽和度が80%台まで低下するようになり、利尿剤と在宅酸素療法を開始しました。8月22日と26日に1人で家から出てしまい、特に26日はなかなか見つからず、長女さんが警察に通報しました。その後、自宅の庭で何食わぬ顔で寝転んでいるところを長女さんが発見し、事なきを得ています。この頃は易怒性が強まっており、機嫌が悪いと食事をとらず、ヘルパーさんに当たることも多かったため、興奮を抑える薬剤を追加し、その後は穏やかになりました。9月以降、リンパ腫に関連すると思われる吐血、急な右下肢浮腫、鼠径部や頚部のリンパ節腫脹、下血などが次々と起きましたが、驚くことにどの症状も対処すれば数日で落ち着きました。しかし、下血の治療のために1週間ほど絶食で過ごした後、食欲が失せてしまい、10月になっても食事があまり取れない状態が続きました。10月以降も急に左上肢が浮腫んだり、舌カンジダを発症したりしましたが、投薬により改善しました。

10月28日頃から両足底のチアノーゼが出現しました。リンパ腫により凝固異常が起きて、足の血流が悪くなっていることが推測されました。半年以上画像検査は行っておらず、訪問診療では詳しい採血検査もできないため、リンパ腫の進行は症状や身体所見から推測するしかないのですが、かなり進行していることが示唆されることを長女さんにお伝えしました。進行したリンパ腫では、感染と出血が一番問題になることが多いのですが、どこのリンパ節が腫れるかやどの臓器に感染するかによって起こり得る症状は多岐に渡り、急変することも、慢性的な経過で衰弱していくこともあるため、予後予測は難しい状況でした。長女さんは病院受診は希望せず、このまま好きなものを少しでも食べさせて、お家で過ごさせてあげたいと希望されました。幸い、痛みなどの苦痛はなく、6月までの状態と比べると衰弱して眠って過ごすことも長い状態でしたが、長男さん、次男さん、長女さんがいつもそばにいてくれて、抱きしめたり、手をつないだり、我儘をきいてくれたりするので、知枝子さんはいつも安心して笑みを浮かべ、時々“ひょっとこ”のようなとぼけた顔をして冗談を言っていました。

11月7日はここ最近ないくらい元気で、びっくりするくらい食べたそうです。11月8日1~2時くらいに就寝し、朝6時過ぎに長男さんが起きた時に、知枝子さんがうつぶせに寝ていて、顔もとに吐物があるのを発見しました。意識がなく、呼吸していないことに気づき、救急要請されました。知枝子さんは心肺停止状態で、救急隊から警察に連絡が入り、知枝子さんは一時警察署に運ばれましたが、その後に当院に連絡をいただき、知枝子さんを自宅に帰してもらって、自宅で死亡診断しました。最期は急なことで、ご家族はとても動揺されていましたが、食べることが大好きな知枝子さんだから、最期までたくさん食べて、ぽっくり逝くのは知枝子さんらしいようにも思えました。

知枝子さんのご逝去から約5ヶ月後の麗かな春の陽気に、長女さんに知枝子さんへの想いについて語っていただきました。

医師の笑顔

この5ヶ月間はどんなふうに過ごされていましたか?

母の介護の期間も長かったのですが、その前に祖母や父の介護をしていて、一部時期が重なりつつ、約10年間ずっと誰かの介護に明け暮れていました。母が亡くなって1ヶ月くらいは葬儀や相続でバタバタしていましたが、それも落ち着いてくると、急にやることがなくなって腑抜けちゃって、手持ち無沙汰に過ごしていて、何かしなきゃなと思っているところです。

お祖母様、お父様の介護について教えてください。

両親は、祖母(母の実母)とは同居せず別に家を構えていたのですが、祖母が高齢になって身の回りのことができなくなってきて、母は65歳の頃に実家に戻り、祖母の面倒を見るようになりました。初めは行き来していたのですが、ひとりにさせるのが不安で、だんだん実家に泊まる日が増えていきました。その間、父は私の次兄と暮らしていたのですが、父はもともと愛煙家で不摂生な生活をしていたので、徐々に父の具合が悪くなり、父の方も介護が必要になってきました。さらに、愛犬も老いてきて、一番ひどい時は祖母と父と愛犬の介護が重なりました。長兄、次兄はその頃仕事で忙しく、あまり介護ができる状態ではなかったし、母自身も認知症が少しずつ始まっていたので、ちゃんと介護ができるひとは私しかいない状況でした。だから、てんてこ舞いになりながら必死に2カ所を行き来していました。若かったからできたのだと思います。私は結婚して家を出てからは両親や祖母とは同居しておらず、通いでの介護でしたが、父と同居していた次兄、祖母や母と同居していた長兄は、私とはまた違う苦労があったのだろうなと思います。

祖母は大病があったわけではないのですが、98歳と高齢で、認知症で物を取られたとか、ここは自分の家じゃないというような妄想が出てしまっていました。だんだん食事が取れず、動けなくなってきて、そろそろかなという覚悟もしていた時に、ショートステイ先で具合が悪くなり、そのまま帰らぬひととなりました。

父は肺気腫があるのにタバコをやめられず、セルフネグレクトもひどくて、とにかく周りが手を焼かないといけない状態でした。父は自分がそんな状態なのに母がそばにいないことが不満だったようで、いつも不機嫌でした。もともと動脈硬化で足の血流が悪かったところに、足に火傷したのを放置して、足が壊死してしまい、切断も経験しました。父は77歳の時にショートステイ先で具合が悪くなり、搬送された病院で亡くなりました。

スマホの写真

知枝子さんはどんなお母さんでしたか?

私たちが小さい頃は、優しかったように思います。あまりうるさいことは言わず、放任主義でした。ただ、大雑把で、天邪鬼なところがあり、子どもながら面倒臭い母だと感じる時もありました。右と言えば左と答えるようなひとです。私は言いたいことははっきりいうタイプなので、物心ついてからはよく喧嘩していました。母自身も言い返すタイプでしたが、晩年にはずいぶん丸くなりました。

母の口癖は「しょうがないわよ」でした。それが長兄にも受け継がれていて、ふたりがそう言うから、自分もそう思うようになりました。母はお坊さんの娘だったから「産まれる時も死ぬ時もひとはひとりだから。大丈夫よ」とも言っていました。そういう母のありのままを受け入れる人生観を私たちも受け継いでいるように思います。何かあった時も、ちょっと怒ったり悲しんだりした後は、笑い話にしていました。

父と母は似た物同士すぎて相性がよくなかったように思います。ふたりとも察してほしいタイプで、やってほしいことを口にしない癖に、察することは苦手なんです。父は不機嫌を顔に出していればなんとかしてもらえると思っていたけれど、母には父の不機嫌の理由はわからず、かと言って直接父に聞いたり、不服を言ったりすることはなく、陰で不機嫌になっていました。それなのに、父は言わなくていいことは言ってしまって喧嘩になっていたから、夫婦って難しいなと思いました。両親のことは反面教師にしています。

スマホを医師に見せる女性

知枝子さんの認知症はどういう経過でしたか?

母は祖母の介護を始めた65歳くらいから少しずつ認知機能が低下していたように思います。初めは、お友達との待ち合わせがうまくできなくなったり、早とちりや勘違いが増えたりして、おかしいなと思うくらいでした。祖母の存命中は気が張っていたのか、大きなトラブルはありませんでしたが、自分が変わっていくことへの自覚が多少あったのか、イライラしていることがままありました。私が父の家にいると母が拗ねて、母の機嫌が悪くなりました。幼児還りのような感じで、すぐに拗ねたり、癇癪を起こしたりするので、扱いに困りました。

祖母は物取られ妄想や疑心暗鬼があって、手を焼いた時もありましたが、母はあまりそういう症状は出ず、変なこだわりとか、言い出したら聞かないようなところはありましたが、まだ対処がしやすい方でした。
母は家が好きで、デイサービスには何度かお試しで行ってみたのですが、行きたくないと言って続けられなかったので、諦めました。嫌がる母を無理に施設に入れるのはかわいそうだし、そうしたとしてもいろんなトラブルで呼び出されそうだから、それに対処する方が面倒だという結論になりました。同居していた長兄も「なんか、寂しいじゃん」と言ってくれて、家で母の介護をすることにきょうだい3人とも同意しました。

晩年の母は、マスコットキャラクターのように思えることが多くありました。憎たらしさは減って、天邪鬼のようなところはあっても可愛気がありました。例えば、みんなで外食に行こうという時に、母は自分が足手纏いになると思ったのか、気遣いのつもりなのか、「私は留守番するからみんなで行ってきなさい」と言い出して、それを説得する方が面倒なのに、一度言い出したら聞かなくて、家を出るまでに1時間くらいかかったこともありました。反抗期の中学生みたいですよね。本人が良かれと思ってすることは大体空回りでした。そういう姿も、鬱陶しいなぁとも思いつつ、可愛いなとも思っちゃうんですよね。

手

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月

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