体験談 2025.04.04
体験談vol.10 中村克代さん(仮名)本人

<写真左> 中村克代さん(仮名)
<写真中央> むすび在宅クリニック看護師
<写真右> むすび在宅クリニック 院長:香西友佳(こうざいゆか)
・患者さんの病名:心臓原発悪性リンパ腫
・患者さんの年齢:80歳
・闘病期間:発症から現在まで1年5ヵ月
・訪問診療を受けている期間:1年1ヶ月
・家族構成:独居。近隣在住の娘さんが週1回程度訪問
・インタビューに答えてくださる方:中村克代さん本人
・インタビューの時期:訪問診療開始から1年1ヶ月後
中村克代さんは40代で乳がんに罹患し、手術と放射線治療、ホルモン療法を受けています。その後も糖尿病や慢性腎不全、関節リウマチなど、いろいろな病気を経験し、左手の痺れやむくみ、あちこちの関節痛におそわれ、思うように体が動かないこともありますが、なんとかひとり暮らしを続けていました。克代さんはこれまでの病気の記録をワープロで詳細に記しています。克代さんの使うワープロはもう廃盤になっていて修理もできないのですが、故障するたびに同じ製品を中古店で入手して30年以上も愛用しているそうです。日々の生活にも食べるものにも、克代さんのこだわりがあり、それが克代さんを支えてきました。
79歳の年の10月中旬から両下肢浮腫を自覚し、10月下旬に循環器内科を受診したところ、心嚢水貯留を指摘されました。心嚢水とは、心臓を包む2枚の膜の間に溜まった水のことで、普段から潤滑剤として10〜30ml程度は貯留していますが、「心嚢水貯留」と言われた時にはその水の量がエコーやCTで見えるほどに増えていることを指します。別日でさらに詳しい検査をする予定で病院から帰宅中、強い息切れを生じて病院に戻ると、心タンポナーデと診断されました。心タンポナーデとは心嚢水が大量に、あるいは急速に貯留した際に、心臓が十分に拡張できなくなり、心機能不全に陥った状態で心停止のリスクもある一刻を争う事態です。緊急入院して針を刺して心嚢液を抜き、克代さんは一命を取り留めました。抜いた心嚢水を検査した結果、悪性リンパ腫が心嚢水貯留の原因とわかりました。心不全の治療後、11月中旬に悪性リンパ腫に対しての化学療法を行いました。1回の化学療法で心臓のそばにあった腫瘍がCTで見えなくなるほどの効果がありましたが、化学療法の副作用で白血球が下がり、感染症を起こして抗菌薬で治療しました。体力も落ちて回復するまでに時間を要しましたが、リハビリを行なって入院から約3ヶ月後の1月下旬に退院しました。
退院後は毎月、月の半分くらい入院して化学療法を継続する予定でしたが、おひとり暮らしであり、化学療法の副作用が遅れて出てくることもあるため、在宅療養中の状態確認のための訪問診療を主治医から勧められました。退院から数日後、当院からの訪問診療を開始しました。それから約7ヶ月間入退院を繰り返して合計6回の化学療法を遂行し、悪性リンパ腫の治療は終了しました。化学療法のたびに血球減少を起こしてしまったため予定よりも薬剤の投与量を減らし、投与間隔をあけての治療にはなりましたが、治療終了時点で病変は消失しており、その後は月1回の通院を3年程度継続する予定です。
現在、化学療法終了から7ヶ月経過し、克代さんは元気に過ごされています。当院からは月2回訪問診療を行い、血液内科、循環器内科、リウマチ科の3つの専門外来へ月1〜2回通院しています。春の兆しを感じる3月のある日に、克代さんに人生と病気と訪問診療について、インタビューさせていただきました。
目次
- 1 克代さんの人生について教えてください。
- 2 悪性リンパ腫と診断された当初は、克代さんは治療を希望されなかったと聞いています。その後にお気持ちの変化があって、化学療法を完遂されました。どういった心境だったのでしょうか?
- 3 克代さんは化学療法のために7ヶ月間入退院を繰り返し、その期間は半分以上の時間を病院で過ごしていました。入院生活はストレスでしたか?
- 4 これまでの人生でつらかったことはありますか?
- 5 これからの人生で不安なことはありますか?
- 6 いまの生活に関して、不自由していることや、こういうサービスがあればいいなと思うものはありますか?
- 7 克代さんのように笑って楽しく生きていく秘訣はありますか?
克代さんの人生について教えてください。
私の父は将校クラブでバーテンダーをしていて、その後に銀座にお店を構えたの。母は着物の仕立てを仕事にしていたわ。来客の多い家で、小さい頃から大人に囲まれて育ったの。きょうだいは18歳年上の兄と3歳下の妹の2人で、兄は私が生まれてすぐの頃に、働いていた工場の粉塵で肺を悪くして亡くなったらしいわ。
私は18歳から商事会社で働き始め、20歳の時に結婚してすぐに娘が産まれたけれど、娘が1歳の時に夫は自動車事故で亡くなったの。その後、23歳の時に夫の家に働きにきていたひとと再婚したの。子どもが好きな男性で、娘の面倒もよく見てくれていたので、このひとなら安心だと思ったの。2人目の夫の妹とも仲良くなって、よく夫と、義理の妹夫婦と旅行にも出かけたわ。そして、25歳の時に息子が産まれたわ。
40歳の時に今住んでいる団地に引っ越してきて、もうここに住んで40年にもなるのよね。仕事は20代後半から再開して、34歳から紙の箱を作る会社で働いて、72歳まで38年間勤め上げたの。リウマチになって細かい手作業ができなくなっちゃって辞めたのよ。
私が73歳の時、81歳になる夫が突然の下血で入院したの。ずっと痔だと思っていたものが直腸がんだったようで、穿孔して初めて診断がついた。3ヶ月くらい入院して、寝たきりだったけれど、ご飯は食べられるようになって、療養病院に移って、それから2週間くらいで亡くなったわ。私は42歳の時に乳がんの経験があるし、父も胃がんで亡くなっているから、なんとなくがんについてはわかっていて、夫が助からないことはわかっていたから、主治医には「痛くないようにしてください」とだけお願いしたの。血圧が下がってきたと病院から連絡をもらって、最期は家族みんなに囲まれて旅立ったから、まぁ、良かったんじゃないかと思うわ。振り返ると、ひとりになってもう6年も経つのね。
娘は結婚して孫が2人いるわ。娘や妹や亡くなった夫の妹とはよく連絡を取り合っていて、娘は週1回はうちに来てくれているわ。息子はあまり連絡もないけれど、頼りのないのがいい頼りよね。今度、娘と孫と実妹と一緒に温泉旅行に行こうと思っているの。
悪性リンパ腫と診断された当初は、克代さんは治療を希望されなかったと聞いています。その後にお気持ちの変化があって、化学療法を完遂されました。どういった心境だったのでしょうか?
2度目の悪性疾患と診断された時は、そんなに驚きもしなかったのよ。しょうがないなって思った。がん家系だし、塩分とかも気にしていなかったから。妹はがんにはなっていないから、そういう悪い病気は全部私が引き受けたと思ってるの。
そんなだから、初めはもう治療はいいかなと思っていたのよね。散々いろんな病気で治療してきたし、今回も悪性リンパ腫の治療に行き着く前に、心不全の治療をしたり、脳梗塞になりかけたりして入院が長くなっちゃってね。早く家に帰りたいっていう思いもあったのだけど、それ以上に入院が長引くとお金がかかって、娘に申し訳ないって思ったの。もう80歳なんだから、無理に長生きしてもしょうがないわよね。家に帰っても一人暮らしは難しいと言われて、転院か施設を勧められて、娘が見学に行ってくれてたんだけど、そうこうしている間に回復してきて、食事が取れて、スタスタ歩けるようになったの。そんな私の姿を見て「お母さん、家で生活したほうがボケないんじゃない?」って娘に言われて。娘もそう言ってくれているし、施設だってお金もかかるからと思って、家に帰ることにしたの。帰るための準備は全部娘夫婦がやってくれたわ。荷物をどかしてベッド入れたり、3ヶ月も空けていたから掃除したりね。
退院して、次の外来に行ったときにやっぱり化学療法を続けてみようって思ったの。身の回りのことは自分でできるくらいにはなっていたし、薬が効いているみたいで、よくなる病気ならもう少し頑張るかと思って。娘には「治療したら」とも「するな」とも言われたことはないわ。好きにしたほうがいいよって言ってくれたの。
克代さんは化学療法のために7ヶ月間入退院を繰り返し、その期間は半分以上の時間を病院で過ごしていました。入院生活はストレスでしたか?
そうでもなかったわ。私はスマホも使えるし、本を読んだりテレビを観たりして、割と入院中も自由に過ごしていたの。毎回同じ病棟だったから、看護師さんも見知った顔ばかりだし。毎朝自分で体重を測って、血糖測定もして、2日に1回はひとりでお風呂に入って。同じ周期で入院している患者さんもいたから、病室でもお友達ができるのよ。とはいえ、もっと長い期間だったら、嫌になったかもしれないわね。入院のたびにちょっと体力が落ちて、本調子になる前にまた次の入院だったから。いまは少しずつ歩ける距離も延びて元気になってきていると感じるわ。
これまでの人生でつらかったことはありますか?
人生でつらかったことはあまりないわねぇ。乳がんで手術を受けたけれど、その時もそんなに痛くはなかったし。リウマチも大変だけどなんとか生活できているしね。
人間関係で悩むひとは多いみたいだけど、人間関係でもしんどい思いをしたことはないわね。大人に囲まれて育ったせいか、どんなひととでもすぐに仲良くなれるの。うまく噛み合わないような時も「そのうちなんとかなるわ」って思っている。性格的に気楽なのよね。
私はひとりでも平気だし、ひとと関わるのも好きなの。子どもの頃、週刊誌の裏にペンフレンド募集って投稿欄があって、それで知り合った同じ名前の克代という方と高校生の時まで8年くらい文通をしていたわ。その方ももう80歳だと思うけれど、いまはどうしているのかしらね。他には、息子が少年野球をやっていたときには麦茶当番に行ってママさん仲間ができたし、童謡コーラスの合唱団に参加したり、地域のフェスティバルで賄いを作るボランティアをやったりしたこともある。いまだって散歩に出かけたら、あちこちでいろんなひとに挨拶して立ち話してるわ。だから、一人暮らしだけど、あまり寂しいと感じることはないわね。ひとりで過ごしたい時には家でトランプ占いをやったり、本を読んだり。そうそう、妹と本の回し読みをしていて、読み終わったら送り合うの。自分で読むだけよりお得だし、楽しいでしょ。夫も亡くなっているし、団地の知り合いだって年齢的に亡くなる方も増えてきた。だけど、新しいつながりもできるし、ひと付き合いが減ってきているとは感じないわ。いい人生だと思うの。
これからの人生で不安なことはありますか?
不安なことはあまりないわね。なるようになるわ。強いていうなら、眠っているうちに死んでいたらいいなと思うわ。ピンピンコロリがいいわねぇ。痛い思いはしたくないから、もし痛かったら、点滴とかで痛くないようにしてほしいわ。
いずれ自分で身の回りのことができなくなったら、それはそれでしょうがない。いまも訪問入浴をお願いしているし、買い物も半分くらいは娘がやってくれているのよ。だから、もっとできないことが増えたら、ヘルパーさんや看護師さんにお願いすることになると思う。家で過ごせる限りは家にいたいけれど、子どもだって歳を取っていくんだから、子どもにもいつまでも頼れるわけじゃないわよね。そんな時には、どこか施設に入ることになるかもしれないけれど、施設もお金がかかるしね。とにかく、子どもに面倒かけたくないって思うわ。でもそれだって、そんな普段から考えてるわけじゃないし、悩みってほどのものじゃないわね。能天気に毎日生きてるわ。
いまの生活に関して、不自由していることや、こういうサービスがあればいいなと思うものはありますか?
いまの生活には満足していて、困っていることも特にないわ。こういうサービスがあったらというのも特にない。
リウマチだから、包丁は上手く使えなくてカット野菜を買っているし、ボタンが付いている服は着ないようにして、爪切りは自分でやると危ないからネイルサロンでお願いしているわ。そういうふうに工夫してやっていくことに慣れちゃってるから、そんなに不便には感じていないのよ。不自由な体とも長い付き合いだから、この体調ならこれくらいはできるかなとか、これ食べたら血糖値はどれくらい上がるなとか自分でわかるのよ。
通院はしているけれど、やっぱり病院に行くと待ち時間も長くて疲れちゃって、数日は動くのが億劫になるのよね。通院はなんとかひとりで行く日もあるけど、不安なときは近所のひとや娘に付いて来てもらうの。その点、訪問診療ならひとの手を煩わせなくていいからいいわね。
安否確認を兼ねて毎日朝晩に娘に連絡しているわ。息子はそんなに連絡はしてこないけれど、いざという時には頼ることもあるかしらね。近所のひとにも病気のことは隠していないの。年寄りばかりだから、みんな気にかけてくれて、廊下や道端で会うと大丈夫かって聞いてくれるわ。私の方がたくさん病気をやっていて、介護保険や高額医療費制度のことも詳しいから、その辺はアドバイスすることの方が多いかしらね。
そんなふうに、いまあるもので十分やっていけているの。これで十分なの。
克代さんのように笑って楽しく生きていく秘訣はありますか?
秘訣は特にないわねえ。心がけてそうしているのではなく、自然にそうなっているのよ。私は、決めた通りにやるとか、無理に押し通そうとすることは一切ないの。今日はこれをしようと思っていたことがあっても、その時になってやりたくないなって思ったらやらないわ。本を読んでいて飽きたら、折り紙をするし、この前はシーラカンスが気になって何度も同じ内容の番組を見ちゃった。その時々の気分で、何事も抗わずに生きているの。
人間関係に関しても同じよ。そのひとはそのひと。ひとを変えようとしない。ただ、ああそうなんだって仲良くできる部分だけすればいいじゃない。
編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月