体験談 2023.12.11
体験談vol6. 松本幸子さんのご家族(前編)
・患者さんの病名:膵臓がん
・患者さんの年齢:70歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで9ヶ月
・訪問診療を受けた期間:40日間
・家族構成:ご主人、長男さんと3人暮らし。隣県に長女さんご家族、近隣に次女さんご家族が在住。お孫さんは2人(高校生、幼稚園児)
・インタビューに答えてくださる方:ご主人、長女さん、次女さん、長男さん
・インタビューの時期:逝去から約3ヶ月後
松本幸子さんの趣味はお料理とお孫さんと遊ぶこと。60歳で定年退職してからは、日々家族のために料理を作り、家族団欒の時間を大切に過ごされてきました。69歳までは大きな持病もなく、お孫さんと走り回って遊ぶ、とても活発な方だったそうです。
69歳の11月にたまたま受けた採血検査で肝機能障害を指摘され、近くの総合病院で精査の結果、膵臓がんと診断されました。内視鏡での処置を受けましたが治療が奏功せず、翌年1月に膵臓と十二指腸を切除する手術に挑みました。しかし、手術中に肝臓に転移が見つかって根治的ながんの切除は困難と判断され、術式を変更して、胃空腸バイパス術(胃と空腸をつなぎ、十二指腸を通らずに食べ物を消化できるようにする手術)を受けました。手術の後に肝臓に膿が溜まったり胆汁が漏れ出たりするなどのトラブルが多発して十分な化学療法(抗がん剤)が行えず、5月には肝臓転移が進行していることがわかりました。体力も落ちて通院も負担になっていましたが、幸子さんは化学療法の継続を希望し、6月中旬まで頑張りました。
しかし、さらなる衰弱のため、主治医と話し合って7月中旬にがんの治療を中止することになりました。それから10日後に脱水で病院を救急受診して点滴を受けました。その際に余命数日から1ヶ月と宣告され、緩和ケア病棟への入院を勧められましたが、幸子さんはお家に帰りたいと訴えました。入院せずご自宅へ戻り、翌日より当院からの訪問診療を開始しました。
初めて訪問した時点で背部痛・腹痛や嘔気嘔吐などの症状があり、食事は全く取れない状態でした。点滴で栄養と水分を補給し、医療用麻薬も開始しました。そして、介護ベッドやポータブルトイレをご自宅に搬入し、生活環境を整えました。数日後には痛みは軽減し、それから約2週間は状態が落ち着いていて、コーヒーフロートやお茶漬けなどを少し食べ、ご家族と団欒の時間を過ごしました。
8月中旬より衰弱が進み、それに伴って幸子さんから「誰にも気づかれないうちに逝ってしまったらどうしよう」「死にたくない」「これからのことが全部不安」「こんなことならもういっそ、終わりにしたい」という言葉が発せられました。幸子さんにとっても、そばで見ているご家族にとっても苦しい時間でした。そして、みんなで相談の上、鎮静薬を使って解決できない強い精神的苦痛から幸子さんを解放することにしました。鎮静剤の開始後、幸子さんは時々落ち着かなくなることもあるけれど、ほとんどの時間をうとうとして過ごし、3日後に静かに旅立たれました。
幸子さんの逝去から約2ヶ月半経過して、長女さんより当院にお便りをいただき、それがきっかけでやり取りが始まりました。逝去から約3ヶ月後のある日、訪問医香西、相談員阿原、訪問看護師がご自宅にお伺いし、ご主人、長女さん、次女さん、長男さんからお話をお聞きしました。
がん治療中のこと
香西:幸子さんが膵臓がんと診断されてからちょうど1年くらいですね。この1年を振り返ってみてどうですか?
長女:診断からの9ヶ月の間、だんだん弱っていく母を見ているのはつらかったです。あと、闘病中に何度も決断を迫られる機会があり、それが苦しかったです。化学療法をやるかやらないかとか、入院するかしないかとか。特に早急な決断が必要で大変だったのは、母の手術中にPHSが鳴り、主治医に「開腹したら肝臓転移が見つかったので、手術を続行するかをどうか5分以内に選択してください」と言われたことでした。どの選択肢にもメリットとデメリットがあり、素人にはどっちがいいのかなんて全然わかりません。なんとなく、主治医が勧めたがっているような方を選びましたが、今でもあの時別の選択をしていたらどうなっていたのだろう、と思い悩みます。
香西:なんの後悔もないご遺族はいません。がん治療においては、たくさんの分岐点や選択肢があるので、違う選択をした場合のことを本人もご家族も何年経っても考えます。ああしていれば、という思いをなくすことはできませんが、そうやって思ってくれているご家族が最期までそばにいてくれたことは、幸子さんにとって救いだったのだろうと思います。治療の選択に関して悩む時、セカンドオピニオンは検討されましたか?
長女:何度かセカンドオピニオンについて検討しました。しかし、母の体調をみると、とても他の病院に連れて行くのは無理だと思いました。また、もし藁に縋り付くような気持ちで他の病院を受診しても、行った先で同じ結果だったとしたら、母にさらにショックを与えてしまうと考えると、躊躇しました。
夫:家族が自らセカンドオピニオン先を探すのも難しいよね。だから、がん治療中に不安がなかったわけじゃないけれど、主治医の先生を信じてやっていくしかないって思ったんだ。
香西:なんでも相談できる、頼れる主治医がいることは闘病中大きな支えになりますね。決断するストレスとセカンドオピニオンの他に、わだかまりはありますか?
夫:余命宣告は絶望だったな。半年前からだんだん短くなる期間を聞いて、とても耐えられないと思った。
長女:在宅療養に入る直前に、母が自ら主治医に「あとどれくらい?」って聞いたのです。そして2ヶ月と告げられて、母は感情を口に出しませんでしたが、一緒に聞いていた私はどうフォローして良いか戸惑いました。
夫:余命なんて聞きたいものではないね。家族はある程度聞かないと準備ができないとは思うけれど、本人には聞かせたくないよ。
長女:母は余命を聞いて在宅を希望し、主治医はすぐに訪問診療の手配をしてくれました。
でも、余命を伝えたことがよかったのかは今でもわかりません。がんの治療が始まってからずっと、母が傷つかないように気を張っていました。テレビや新聞、話題にも敏感になりますね。病院の待合室で大画面のテレビに末期がんの特集が流れた時には、誰か番組変えてよって思いました。家でもさりげなく番組を変えたこともあります。
香西:そういった配慮も幸子さんへの愛あればこそだと思います。みなさんで懸命に幸子さんを支えてこられたのですね。
在宅介護を開始してからのこと
香西:幸子さんは6月まで化学療法を行っていて、7月から急速に状態が悪くなり身の回りのことが出来なくなりました。要介護認定も取得しておらず、何の準備も整わないまま在宅介護が始まりました。最初にお会いした時は、ご主人はかなり戸惑われていましたね。
夫:そうだったかなぁ。でも、幸子が入院は嫌だって言ったし、在宅でやるしかないって決意したんだよね。幸子も精神的に参っていたから、家族が交代で必ず誰かがそばにいるようにしてたんだ。娘たちや本人の妹もきてくれたから、俺も長男も仕事をしながらだったけど何とかやれたよ。訪問診療や訪問看護は本当にありがたかった。幸子も先生や看護師さんを信頼していたし、ある意味縋っていたとも言えるかもしれない。俺たちも相談できる人がいるというのは大きかった。在宅介護をしている間は、どうしていいかわからないことが頻発するからね。例えば、幸子が痛いって言っても、俺たちはおろおろするだけだったし、おむつ交換の仕方なんかも看護師さんから教えてもらわないとわからないものね。食べるものだって、何を食べさせてよくて何がいけないのか、全然わからないよ。
夫:幸子にもっと生きていて欲しかったけれど、もっと長い期間在宅介護ができたかというと、それは無理だったと思う。
香西:どんなことがおつらかったですか?
夫:介護の身体的な負担よりも気持ちがしんどかった。幸子が寝られないと言うと、俺も寝られなくなって、1ヶ月で体重が4、5kg減った。周りの人に介護も大事だけど自分も大事にと言われたよ。
長女:私は母と一緒には暮らしていませんでしたが、離れて過ごしていても、いつ連絡があるかと、常にピリピリ緊張していました。一番そばにいる父のことも心配で。だけど、途中で在宅療養から入院に切り替えるなんて言えないから、正直に言って、長くなったらどうしようとも思っていました。
夫:幸子もつらかっただろう。あの苦しさから解放されて今はきっと楽になっているよね。
長女:たった1ヶ月の在宅介護で、こんなにしんどくなっちゃって、根を上げてしまって。もっとできたこともあったのかなと考えてしまうけれど、本当に限界でした。何か月も在宅で介護をされている方もいると考えるととてもすごいなと思います。
香西:初めから1ヶ月とわかっているわけではありませんから、いつまで続くかわからない介護期間は精神的な負担の大きいものですよね。たった1ヶ月とおっしゃいますが、幸子さんはそれまでもお家で生活されていたので、診断からお亡くなりになるまで、長い闘病生活をみなさんはずっと一緒に体験されています。また、幸子さんが身の回りのことができなくなって在宅で最期まで過ごすことを決意して、本格的に在宅介護が始まったのは、7月末からですが、亡くなる前の1ヶ月というのは、状態が急速に変化する一番しんどい期間です。在宅介護の期間が長い方はもう少し変化がなだらかだったり、最期の1ヶ月になるまでは落ち着いていたりするので、例えば在宅介護期間が3ヶ月だったら3倍しんどいというわけではないのです。幸子さんは「生きたい」と「早く楽になりたい」という相反する2つの感情がせめぎ合っていたので、そばにいるご家族も苦しかったと思います。
夫:「楽になりたい」って言われて、そこまできちゃったんだと、多少こっちも諦めがついたかな。「死にたくない」とは俺には言わなかったけど、娘や先生には言ってたみたいだね。
長女:母から「生きたい、死にたくない」と言われた時になんと返事をして良いかわかりませんでした。頑張ってとも大丈夫だよとも言えない。かと言って無視もできないし、自分が何か言うと、その言葉が母を傷つけてしまうのではないかと怖かったです。話題を逸らしたり、そういう気持ちばっかりでいるのもねと話したりしたこともありました。なんと返事をすればよかったのでしょうか?
香西:まず、お母さんが娘さんにそれを伝えるのはとても勇気のいることで、本当に信頼関係ができていないと伝えられないことだと思います。幸子さんにつらい気持ちを吐き出せるご家族がいたことはとても大きいことです。そして、生きたいのに生きられないというのは、誰にも解決しようのない問題で、こう返せば良いというような上手い返事はありません。その苦しみは幸子さんが自分で立ち向かうしかないものです。幸子さんもおそらく娘さんに回答を求めていたわけではなくて、かなしみを共有して、抱えきれない想いを少しでも一緒に持ってもらいたかったのだと思います。大事なことは、その苦しみを抱える幸子さんをひとりにしないことです。そばにいるだけ、それが一番しんどいと思いますが、黙って聞いてあげるひとが必要なんだと思います。みなさんいつも幸子さんのそばにいましたね。
夫:そうだなぁ。寂しがるから、そばにはいたな。病院だとそうはできなかっただろうから、お家で看取ったことだけは、本当に良かったと思う。
香西:在宅で1ヶ月もの間、ご家族みんなで介護をしたこと、そして幸子さんの希望通り在宅でお看取りをしたことは誇ってよいことだと思います。訪問している私たちがすごいなと思うくらい、みなさん総出で、みんなが幸子さんのことを思って介護されていました。
編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2023年某月