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コラム 2023.03.05

死について考える4章
−自分のこれから、大切なひとのこれからが気になる方へ−

死について考える 4章

自分の最期のときも、大切なひとの最期のときも、後悔しないために
ーACPとは。ACPの具体的な手法。そしてそれよりもっと大事だと思うことー

ACP(アドバンス・ケア・プランニング)とは、日本語訳だと人生会議で、いざという時、特に患者さんが自分で意思表示ができなくなった時に備えて、先々の医療・ケアに関する意向について本人を含めて身近な人で話し合って、共有しておくことを意味します。

今、医療介護の業界ではACPが一つのブームで、いろいろな団体がACPに関する講習会を開いています。ただし、その具体的なやり方はまだ手探りです。よく提案される手法としては、

  • 改まって質問するのもダメではないが、それよりも、患者さんがぽろっと口にした人生観(例:家族に迷惑はかけたくないわねぇ)をきちんとキャッチしよう。
  • 「もしも」と仮定して、状態が悪くなってきた時にどうしたいか聞いてみよう。
  • 患者さんを質問攻めにするよりも、患者さんの言葉をそのまま反復したり、沈黙してみたりすると、患者さん本人の意思を患者さんの言葉で聞き出しやすい。
  • いろんなひとが聞いた患者さんの大事な言葉を、情報通信技術(共有カルテのようなもの)で共有しておこう。

などがあります。

患者さんに限らず、みんなが、自分のこれからのことや、どう生きたいか、何が大切かについて考えることはとても大事なことだと私は思っています。その前提の上で、小さな声で言いたいのですが、

  • ひとは、本当に土壇場にならないと、真剣に考えたり、決断したりすることなんてできない。
  • ひとは、欲張りだから、一番やりたいことは1つではない。2つ、あるいはそれ以上のことがやりたいし、欲しいし、叶えたい。その中には相反することだってある。
  • ひとは、1つ願いが叶ったら、また次の願いが出てくる。欲望に終わりはなく、「満ち足りる」とか「思い残すことはない」なんていう境地には、凡人は到達できない。
  • ひとは、気まぐれで、常に変わっていく生き物。昨日の自分がこう言ったから、今日も同じ気持ちだと思わないでほしい。自分の中に変わらないものもあるけれど、相手に「こういうひとなんだな」とプロファイルされるのはちょっと嫌。

と、わがままで欲望の塊である私自身は自覚していて、もしかしたら、同じような考えの患者さんも多いのではないかな、と推しています。

ですから、ACPを重視しすぎて、患者さんの“いま”が軽視されてはいけないし、一度の発言で患者さんの言質をとったなどと思ってはいけないし、結局、“いま”を全力でいいものにしなければ、後悔のない最期なんてないのだろうなと思います。

少しACPの話から逸れて、私の話をさせてください。

中学の国語の授業で「メメント・モリ」という単語を習いました。古代ローマの言葉で「死を想え」、「死が目前に迫っていると考えて、懸命に生きろ」という意味です。その言葉を聞いて私は、明日死ぬかもしれないならやりたいことを全部やらなければ、と焦ってしまいました。中学から大学卒業まで、研鑽を積まずにできるやりたいことは全部やって、めちゃくちゃ遊びました。そして、研修医の時に、ふと、「いろいろやってきたけれど、時間をかけてでも一番やりたい、譲れないものってなんだろう。もし、死ぬ時や場所をある程度自分で決められるとしたら、どうしたいだろう」と自問して、すっと出た私の答えは、「友達に囲まれて、最期まで遊んで過ごしたい」でした。

私のように、生き急ぐことはお勧めしません。無茶なこと、無謀なこともたくさんしましたし、両親にも祖父母にもすごく心配をかけました。しかし、私は、“いま”を全力でやりきろうとしているからこそ、自分の中で大事なものが見えたのだと思います。

みなさんも、後悔しない最期を考える前に、“いま”やりたいことを考えてみてください。“いま”が仕事とか家事とか、やらなければいけないことで忙殺されて、やりたいことが思いつかないのであれば、まずは、やりたいことを考えるところからだと思います。

明日は今日の続きです。私は、欲望は尽きなくても、思い残すことはたくさんあっても、限りある時間の中で、何度タイムスリップしたって、今回以上の人生は辿れなかったと思うくらいの道を歩んで、「我が人生に悔いなし」と習字で書いて、友達に笑われて、最期を迎えたいです。

執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳

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