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2026.07.16

第6回おむすびの会(遺族会)開催後記

2026年6月18日に第6回おむすびの会を開催しました。今回はご遺族4名、スタッフ6名の計10名での会となりました。おむすびの会ではその時々で語りたいことを自由に語っていただく方針としています。これまでのおむすびの会では、亡くなった方との思い出や、その方がどんな人生を歩まれたのかをお聞きすることが多かったのですが、今回は少し違いました。

第6回を一言で表すと、「悲しみの中にいる『今の自分』を語る時間」であったと思います。語られたのは、思い出そのものよりも、「亡くなったあと、自分が今どうなっているのか」「何を考えて、何に苦しんでいるのか」「これからどう過ごしていけばいいのか」という、今この瞬間の気持ちでした。
今回は、そこで語られた言葉をできるだけそのまま残す形で、開催後記を記します。

※個人が特定されないよう、固有名詞、具体的な地名、病院名、職業、ご家族構成の一部は伏せています。
※発言は、趣旨を変えない範囲で読みやすく整えています。
 


 

「手続きが大変です」

大切な人を亡くしたあと、すぐに悲しみに向き合えるわけではありません。ある方は、亡くなった後の手続きについて、こう話されました。
「手続きが大変です。文章も読めなくなって、字も書けなくなってしまって。何回読もうとしても、さっぱり内容が入ってこないんです。だから家族に手伝ってもらって、自分でできるところだけやっています。毎日少しでも進めることが大事かなって思って。夫の部屋から書類を持ってきて少し眺めては元の場所に戻してっていうのを毎日毎日繰り返しています。最初は何がなんだか全然わからなかったんですが、ここ最近、やっと少しずつ理解できるようになってきました。手続きがすべて終わるまでは、部屋の片付けもできません。今片付けると、どこに何があるのか、わからなくなると困るので」

片付けたい。でも、片付けられない。
手続きを進めたい。でも、書類を前にすると体も心も止まってしまう。

遺された書類や部屋は、ただの物ではありません。そこには、亡くなった方が生きていた時間が残っています。だからこそ、片付けることは、単なる作業ではないのだと思います。

 

「夫は私の支えで、理解者で、カウンセラーのような存在でした」

ある方は、亡くなった方の存在について、こう話されました。「夫は私の支えで、理解者で、カウンセラーのような存在でした。夫がいなくなって生きる意味を見失っています。楽しかったことを思い出そうとしても、痩せ細った顔しか思い出せなくて。何を目標に生きていけばいいのかわからなくなっています。今は本当に、早く迎えに来てほしいという気持ちが胸にあります」

その言葉を、誰も否定しませんでした。慰めようとして、急いで明るい言葉に変えることもしませんでした。
それだけ大きな存在を失ったということ。その人が、毎日の支えであり、話し相手であり、自分を受け止めてくれる場所だったということ。その喪失の大きさが、そのまま言葉になっていました。

 

「もっと前にわかっていたらよかった」

会の中では、後悔の言葉もたくさん出ました。
「もっと前にわかっていたらよかった」
「もっと強く言って、どこか調子が悪いところを見つけるようにすればよかった」
「いろんなことが、当たり前だと思ってしまっていた」
「何をしていたんだろうと思います」

亡くなった後、時間ができると、「あの時こうしていたら」「あれもできたのでは」「本当にこれでよかったのか」という思いが何度も戻ってきます。

でも、会の中では、こんな言葉もありました。
「その時その時に、自分ができる精一杯のことはしていたんだと思います」
「病気がわかってから、定年後に行きたかったところ全部行こうって。47都道府県全制覇しようって。ふたりで行きたかったところをできる限り回りました」
「本人が嫌がることはしなかった。どう思っているのかわからないけれど、せめてはっきり言われたことはその通りにしようって」
「必死だったんですよね。ついていくのに。でも、私がしっかりしなきゃって」

後悔が消えるわけではありません。それでも、その時のご家族は、迷いながら、悩みながら、その時できることを必死にやっていました。

 

「介護をしているとき、母に触れられることが嬉しかったんです」

お母さんを亡くされた娘さんの言葉でした。
「母はとにかく何でも自分で決めて、自分でやる人でした。足が悪くて50代から車いすを使っていたのですが、少し段差があったり、雪道で危なかったりするときでも、私が手を貸そうとすると払いのけられるんです。そういうのは寂しいなと思っていました。だから、介護の時に母に触れることを許されているっていうのは、変かもしれませんが、嬉しいと感じました。もっと母の気持ちを知りたかったです。もっと母のしてほしいことをしてあげたかったです」

介護をすることが嬉しいと感じる。そう言ってくれる娘さんに身をゆだねていた患者さんのお顔を思い出しました。自分が嫌なことは絶対に嫌とはっきり言う方でした。
人の気持ちを簡単にわかったつもりになったり、代弁したりしてはいけないけれど、私には患者さん自身が望んで、娘さんに身を任せているように見えました。穏やかで安心しているお顔に見えました。

 

「悲しいんだろうけど、自分でもよくわからない」

悲しみ方は、人によって違います。
涙が止まらない人もいます。眠れなくなる人もいます。食べられなくなる人もいます。
反対に、涙が出ないことで、自分を責めてしまう人もいます。

ある方は、こう話されました。
「自分でもよくわからない日が続いているんです。父が息を引き取った瞬間や、葬式で棺に蓋をした瞬間、火葬場で見送る時は涙が出ました。でも終わってみると、悲しいんだろうけど、ほかの家族ほど感情が湧いてこない。自分の親が亡くなったのに、何の気持ちも湧いてこないような自分もよくわからない。自分が今、よくわからない状況です」

その言葉に対して、「まだ実感がないのかもしれない」「今は手続きや家族のことがあって、自分が崩れないようにしているのかもしれない」という話が出ました。

悲しみは、同じ形では表れません。泣いているから悲しい。泣いていないから悲しくない。そんな単純なものではありません。自分でもわからないまま、ただ毎日を過ごしている。それもまた、大切な人を亡くした後の姿なのだと思います。

 

「亡くなった曜日の夜になると、思い出してしまう」

亡くなった日のことが、身体に刻まれていることがあります。ある方は、亡くなった曜日の夜になると、その時のことを思い出してしまうと話されました。
「その曜日の夜が来ると、ちょっと思い出してしまいます。早く寝るようにしないと、また思い出して眠れなくなるかなと思って。その時間に起きていると、結局思い出してしまうからと思って、全部電気を落とすんですけど、寝ているんだか寝ていないんだかわからない状態です」
「前は1時間おきくらいに起きて、寝ているのか起きているのかわからない状態でした」

少しずつ、3時間、4時間と眠れる時間が出てきたという話もありました。けれど、それでもまだ、夜は簡単には越えられません。
悲しみは心だけでなく、身体にも残ります。眠り、肩のこわばり、字が書けないこと、食べ物の味がしないこと。喪失は、日常のいろいろなところに表れます。

 

「今も一緒に生きているみたい」

亡くなった後も、関係が終わるわけではありません。ある方は、今も亡くなった方に声をかけていると話されました。
「今日はあそこに行ってくるよ、ここに行ってくるよって、声をかけています。天気がいいからね、とか、今日はどこへ行ってくるかな、とか。住職さんにも『それだけでいいから』と言われました」

別の方は、こう話されました。
「今も一緒に生きているみたいな感じです」

亡くなった方に声をかけること。一緒に行った場所へ、もう一度行くこと。位牌や指輪をそばに置くこと。お骨を急いで納めず、もう少し家に置いておくこと。
それは、過去にしがみついているということではなく、亡くなった方との関係を、今の暮らしの中で続けているということなのだと思います。

 

「ゆっくり、ゆっくりでいい」

同じように大切な人を亡くした経験を持つスタッフからも、言葉がありました。
「私も一緒に過ごす老後を楽しみにしていたのに、いなくなってしまいました。定年の少し前にいなくなってしまって、本当に馬車馬のように働いて、老後は一緒に旅行に行こうねと言っていたのに、約束を果たさないまま行ってしまいました」
「最後に『生きたい』と言っていたのがすごく辛くて、自分のせいではないのに、『ごめんね、役に立てなくてごめんね』という気持ちがずっとありました」

そして、こう続けました。
「でも、5年経って時間とともに、だんだん自分の足で立って歩き出すことができています。今は本当に辛いと思うんですけど、ゆっくりゆっくり、焦らないで前に一歩一歩進んでいけたらいいなと思います」
「話すことで、その時は悲しくなるんですけど、でも少し楽になるところがあるなら、話すことには意味があるのかなと思います」

同じ経験を持つ人の言葉だからこそ、届くものがあります。答えを出すためではなく、ただ同じ場所に立って、同じ痛みを知っている人として話すこと。それだけで、少し息ができることがあります。
 


 

7月に向けて

会の最後に、参加者それぞれが「7月にやろうと思っていること」を話しました。
「手続きを進めたい。全部終われば、少し進めるかもしれない」
「お盆だから、お墓参りに行きます」
「ふたりで行った白浜に行こうと思っています。これでだいたいふたりで行ったところは回り切ります」
「黒い服を着て集まるのは葬儀の時だけにしようと決めていたから、お盆は何もしません」
「仕事や勉強を頑張ります」
「次に何をするか考えたいと思います」

大きな目標ではありません。元気になった、前を向けた、ということでもありません。
それでも、今の自分のまま、次の1ヶ月をどう過ごすかを言葉にする。そのこと自体が、とても大切なことのように感じました。

 

今回のおむすびの会を終えて

今回のおむすびの会は、亡くなった方の思い出を語る会というよりも、大切な人を亡くした後の「今の自分」を語る会でした。

悲しい。寂しい。苦しい。後悔している。何も楽しくない。眠れない。自分の気持ちがわからない。それでも手続きはしなければならない。ふとした時に笑って過ごしている自分に罪の意識を感じる。家族の前では崩れられない。でも本当は、自分もどうしたらいいのかわからない。ひとりだと感じる。

そのような言葉が、そのまま置かれた時間でした。

おむすびの会は、何かを解決する場所ではありません。悲しみを前向きな言葉に変える場所でもありません。
言葉にならないものを、少しだけ言葉にしてみる場所。
誰かの言葉を聞きながら、自分だけではないと感じる場所。
亡くなった方との関係を、これからも自分の中で続けていくための場所。

今回、語られた言葉の一つひとつから、喪失の中を生きることの重さと、それでも今日を過ごしている人の強さを感じました。

ご参加くださった皆さま、本当にありがとうございました。
次回のおむすびの会は、8月の第3木曜日に開催予定です。

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