第3回おむすびの会(遺族会) 開催後記

2025年4月17日に第3回おむすびの会を開催しました。3回目となると私も落ち着いて司会進行ができるかと思いきや、今回もすごく緊張しました。参加者のみなさんが話したいことを話せる雰囲気はどうやったら作れるのだろう、私が聞きたいことばかりを聞いてしまっていないだろうかと毎回不安になります。参加者のなかには皆勤賞の方もいれば、初参加の方もいます。どの方にとっても、来てよかった、また参加したいと思える会にしたいと思っています。第3回おむすびの会で語られた内容について、回想録を作成しました。
※録音ではなく、私の記憶を頼りに、ご遺族の語られた内容を記しています。
※遺族会で語られたことは持ち帰らずその場に置いていくのが原則ですが、その場で出たお話がこれを読む方の心にも届くのではないかと思い、ご出席いただいた方にご了承いただいて、公開させていただきます。
参加者数:3名 時間:18時~19時30分
集まった参加者の共通点は「大切なひとを亡くした」ということ。でも、それぞれ全く違う人生を歩んできた。大切なひととの関係性も違うし、大切なひとを失ってからの期間も違う。気持ちの変遷も全く違う。何年経っても全くかなしみが癒えないひともいるし、すでに気持ちの整理ができつつあるひともいる。だけどここに集まってきたのは、仲間に聴いてほしい、仲間と過ごしたいという思いがあるから。
全く同じ経験をしているわけではないから、自分の発言が他のひとに否定されてしまうのではないか。自分が他のひとの何気ない言葉に傷ついたことがあるから、自分がこの場で話すことが他のひとを傷つけてしまったらどうしよう。そんなふうに不安になって口を閉ざしそうになってしまう。だけど、大切なひとを亡くすという経験をしたひとにしかわからないものがある。みんなどんな話も絶対に受け止めてくれる。どんな選択や考えも否定したり、評価したりすることはない。
大切な人が亡くなったあとで
四十九日を過ぎて納骨も済ませたが、妻の遺骨を少しだけ分骨して手元に残した。小さな骨壷に入れてリビングのテーブルの上に置いてある。仏壇に置くと妻が遠くに行ってしまいそうで、まだもうちょっとそばにいて欲しいから。そこに妻がいるような気がして、毎日骨壷に話しかけている。
前々からあとのことは聞いておかないと、と思っていた。思いながらも、なかなかタイミングが図れず、私から質問したのは夫が亡くなる2週間前だった。「お墓参りには頻繁にきてくれないと嫌だ」と彼は言った。法律事務所で働いている私は急に冷静になり、これは書面に残しておかないと後々揉めると思い、ペンを持つのもやっとの夫に震える手で遺言を書いてもらった。夫の遺骨は分骨して私の家から近い墓地の樹木の下と、義母の元に眠っている。4年経ったいまも、2週間に一度は必ず彼に会いにいく。
家の中のことは全部妻が管理していたから、大事な書類も実印もどこにしまってあるのか見当もつかなかった。だからと言って、床に伏せる妻に「おい、あれはどこだ?」なんてとても聞けなかった。妻が亡くなってから散々探したけれどやっぱり見つからず、この1年は名義変更やら印鑑の再登録やらに追われた。いったいどこに置いてあるのだろう。引き出しを開ければ、思わぬものを発見することを未だに経験する。いなくなって1年以上経っても、ここは妻の家なんだなぁ。
写真
娘が妻の写真を引っ張り出してきて、アルバムを作ってくれた。そのなかから一枚取り出して、手帳に挟んでいつも持ち歩いている。妻の写真を胸に入れて、万博に1万人の第九を合唱しに行ってきた。指揮者は晴れ男だと豪語し、第九の間は本当に雨が止んだ。合唱の声は美しく空に澄み透った。クラシックが好きだった妻の耳にも、歌声は届いたのだろうか。
妻も私も写真を撮られるのが好きじゃなかった。遺影に使えるようなものがなくて、しょうがないからマイナンバーカードのブスッとした顔の写真を遺影にした。笑っているより、文句を言っている方が多いような妻だったけれど、妻のことを思い出すときには、笑っている顔や、美味しそうに物を食べている顔が浮かぶ。最近、30代の頃の妻の写真が出てきた。出会った頃の妻は、やっぱりブスッとした表情で、私のよく知っている妻だった。
数年経っても夫の写真を見ることができなかった。思い出が溢れてきてしまい、とても耐えられなかった。でもあるとき、ふと開いたSNSで〇年前のあの日と表示された写真が、桜を背景にして、愛犬と夫が笑っている写真だった。久々に夫の笑顔を見た私の心はさざなみのように揺れたが、激しい動揺はなかった。写真を印刷して部屋に飾った。この写真を撮った場所、見事な桜の大木が川に向かって枝垂れかかる道に、来春こそ行ってみようかな。行けるかな。
喧嘩
50年近くも夫婦をやっていたら、喧嘩なんてしなくなる。最初の10年くらいは喧嘩もあったかもしれないけれど。元来、双方とも相手の文句が肩の横をすり抜けていくタイプだ。まさに暖簾に腕押し。なんて、僕が言っているのを聞いて、妻は文句を言っているかもしれないな。
職場のすぐ近くの団地に住んでいたころ、同僚や社長までもが飲んだ帰りに泊まりにきた。妻は人嫌いのくせに外面は悪くないから、黙ってみんなを泊めて朝食を作ってくれた。あとで俺にはぶつぶつと不満の嵐だったけれど。妻は文句を言いつつも世話焼きで几帳面だった。妻の入院中にコンビニで飲み物を買って行ったら、「気を利かせてアイスでも買ってきてくれたらいいのに」と小言を言われた。もうそれに慣れてしまったから、妻が文句を言わないとよほど調子が悪いんじゃないかと思ってしまったくらいだ。
振り返ってみれば結婚生活は喧嘩ばっかりだった。意見が合わないことなんてしょっちゅうだし、別行動も多かったし、そんなに仲睦まじい夫婦というわけではなかった。でも、喧嘩もできなくなってしまったら、思い出すのは嬉しかったことや楽しかったことばかりで、一緒に過ごした時間がすごく幸せだったように思えてくる。亡くなってから、あのひとはいいひとになってしまった。
やり残したこと
妻は食べることが好きだったけれど、腎不全になって食事制限が始まり、だんだん食欲も落ちて、食べられる量も減っていった。それでも、週に1回はふたりでレストランへ行った。「たくさんは食べられないから、とびきり美味しいものを1口だけ」と妻は言った。美味しいものを食べる妻は本当に幸せそうだった。妻が行きたがっていたレストランリストの残りを娘と一緒に制覇していこうと思う。
行きたかったところ、食べたかったもの、聴いたら喜びそうな音楽。あるいは、一緒に行って、一緒に過ごして、一緒に食べて、一緒に歩んだ道を、思い出しながら辿ってみる。彼がやれたこと、そしてやり残したことを私が代わりにやりたいと思う。彼と一緒に歩んでいきたいと思う。
贈られたことば
妻が亡くなったのは結婚して50年になる年だった。結婚記念日は11月で、妻が亡くなったのは 2月。あと少しで金婚式だったのになと思う。亡くなる半年くらい前、ふたりで家で過ごしていたなんでもない日に「生まれ変わってもあなたと結婚したい」と妻はぽつりと言った。普段そんな言葉を口にするようなひとではないのに。そのとき自分は「ああ、そうなの」と素っ気なく返したが、それを言ったときの妻の顔は鮮明に覚えている。
あのひとは介護する私に「ありがとう」とたくさん言ってくれた。「ごめんね」ではなく、「ありがとう」と言われたことが、私はすごく嬉しくて、報われた気がした。夫のことを思い出すたびに何度も後悔したり、申し訳なく思ったりするけれど、夫の「ありがとう」が、これでよかったのだ、できることは全てやったのだと思わせてくれる。
毎日昼にはコーヒーを入れて、線香を炊いて、仏壇に向かう。なにか一言でも毎日話しかけてあげるといいとお坊さんに聞いて、今日あったことを伝えてみる。言ったって妻からはなんの返事もない。夢にも出てこない。妻が言いそうなことは容易に想像がつく。妻が悪態を垂れているのを思い出して、苦笑する。特別なことばなんかないけど、それが妻らしい。
最近のわたし
妻がいなくなってから、自分でご飯を作るようになった。毎日仏壇にご飯をお供えしないといけないから、米は毎日炊く。他にはお味噌汁やちょっと焼いたものも。食べ終わったら、散歩に行く。1年以上、ほとんど毎日欠かさずに散歩をしている。最近、同じコースを歩いているのに歩数が増えていることに気づいた。歩幅が狭くなってしまったのだ。わずかな変化に老いを感じるけれど、それを振り払うように、意識して大股で歩いてみる。
妻がいた頃は、毎日妻がご飯を作ってくれていた。妻は食にうるさくて、丁寧な味付けだった。いまは週2日は娘と食べて、週2日は外食、あとはひとりで冷凍食品を温めている。最近の冷凍食品はすごい。大体どれも美味しい。妻がいなくなってから、少し太ってしまった。ダイエットのためにゴルフぐらいはしないといけないな。
夫が亡くなってから3年、ようやく夫のことを話せるようになってきた。自分の気持ちの変化もあるけれど、話せるような相手、話しても自分が傷つかないような相手を見分けられるようになったのが大きいかもしれない。思い出して語ることが一番の供養になるのだと思う。何度も同じ話を繰り返すし、そのたびに内容が少し変わることもあるかもしれないけれど、それでいいのだと思う。
受け継いだものと託されたもの
妻は節句や行事を大事にするひとだった。クリスマスや年末年始、節分の飾り付けなんかはいつの間にか妻から娘に受け継がれていた。娘は私に、息子は妻に似ているところが多い。ふたりの子どもの内面にも自分や妻の面影を少しずつ感じる。
妻は十年以上も前から、クリスマスリースを作って教会のチャリティバザーに出していた。毎年秋から冬にかけては毎週我が家に数人の仲間が集まり、リビングテーブルを飾材でいっぱいにしてリース作りに励んでいた。妻の生きがいのリース作りは、きっと仲間のうちの誰かが引き継いでやってくれるのだろう。
妻が大事に育てていた植物はほとんどみんな枯れてしまった。水やりだってちゃんとやっていたのに。家には肥料や土や園芸用品が大量にあるのだけど、私にはどれをどう使ったらいいのか見当もつかない。2週に一度は仏壇に供える花を買いに花屋に行くから、そこで仲良くなった店員さんに家の植物の写真を見せてどう手入れしたらいいかを聞いた。店員さんに教えられた通りにして、1本の薔薇だけがかろうじてまだ枯れずに残っている。なんとか咲き続けてくれたらいいのだけど。
彼が闘病中に飼おうと言って飼い始めた犬。結局、彼と愛犬は1回しか散歩に行くことはできなかった。彼は、自分がいなくなることがわかっていて、私のために飼おうと言ってくれたのかもしれない。私が寂しくないように、ひとりにならないように、生きがいを無くさないように。犬は我儘で甘えん坊で、ビビリのくせに子どもに向かって吠えてしまうような子で、とても手がかかる。犬の世話をするために、私は元気でいなくちゃと思う。
ここに綴ったのは、語られた思いを私が受け取って、私なりの解釈をしたものです。ひとの気持ちのすべてを正確に理解することはできません。同じ言葉でも少し置き換えただけで、あるいは声のトーンを変えただけで、全く違うものになってしまいます。誰が話すかも重要です。それでも、おむすびの会の雰囲気を少しでも留めておきたいと思い、記しました。
おむすびの会に限らずですが、何度かお会いしているご遺族の方から、「同じ話」を繰り返しお聞きすることがあります。変な言い方ですが、ご遺族からお聞きする「同じ話」に「同じ話」はないと感じます。同じエピソードについて語られていても、そのときのご遺族の気持ちや、時の経過が折り重なって、聴き手側が受ける印象が違うのです。「同じ話」は年輪を重ねるように、あるいは、降り積もる落ち葉のように、深みを増し、熟成され、語り手のなかでも、聴き手の私のなかでも新しい物語に変化していっているように感じます。繰り返し語ること、繰り返し聴くことで、何がどうなるのだとうまく表現することはできないのですが、私にとっては心が温かくなるような、生きることを見つめ直すような、貴重な時間です。参加者の皆さんにはおむすびの会に何度でもお越しいただけたらと思っています。