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体験談 2025.10.07

体験談vol.23 樺澤キヌさんの次女さん②

体験談vol.23 樺澤キヌさんの次女さん②

・患者さんの病名:大腸がん
・患者さんの年齢:103歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで3ヶ月
・訪問診療を受けた期間:約2ヶ月半
・家族構成:次女さんと2人暮らし、隣県に長女さん家族、近隣に三女さん家族在住
・インタビューに答えてくださる方:次女さん(70歳)
・インタビューの時期:逝去から1年4ヶ月後

キヌさんのご主人は脳梗塞になったと伺いました。いつ頃のお話でどのように過ごされていたのでしょうか?

父は10年前に脳梗塞を発症し、重度の麻痺が残ったので家での生活が難しく、施設に入りました。そこで1年半くらい過ごした後、誤嚥性肺炎に罹り、病院に搬送されて1週間くらいで亡くなりました。肺炎になってからは痰が多くて気管吸引をされていたのですが、吸引をする時は苦しそうで、あれは嫌だなと思いました。最後の方はぼーっとしていて、母のことはわかっていましたが、私たち娘のことは誰が誰かわかっていませんでした。

父が脳梗塞になった時、母はすでに90代で、「自分じゃ手に負えないから、おまかせするしかない」と父を施設に入れることに同意しました。寂しそうにはしていましたが、しょうがないと諦めていました。母は心配性で、いつも家族のことばかり案じていましたが、いざとなると冷静な判断ができるひとでした。

キヌさんの余命を聞いた時はどんなお気持ちでしたか?

コロナで入院していた時の検査で大腸がんという診断は聞いていたものの、それ以上のことは詳しい検査をしないと分からないと言われていて、まさかそんなに悪い状態だとは思っていませんでした。
腹痛が起きた後で詳しい検査を受けて、姉と2人で病状説明を受け、余命3ヶ月と言われた時には、頭が真っ白になってしまいました。その先生に「がんは何年前からあったのでしょうか?」と聞いたら、「5年くらい前からあったのかもしれない」と言われました。もし5年前に診断されていたとしても、その時点で母は98歳で、結局手術などの治療ができる状態ではなかったでしょう。どちらにしろ、痛みを抑えるくらいしかできないんだったら、がんだと知らなくてよかったかもしれないと思いました。がんを抱える母を5年間も支えることに精神的に耐えられなかったかもしれません。病気を診断されてしまうと、病人になっちゃうから。そう思うと、3ヶ月で済んで良かったのかもしれないとすら思いました。

メガネをかけた女性

キヌさんは最期までがんのことは知らなかったのでしょうか?

がんと診断された時にはもう103歳で治療ができるような状態じゃないから、病名を伝えても、ただショックを与えるだけになってしまうので、伝えないで欲しいと私たちから医師にお願いしました。その後、ひどい腹痛が起きて、病院で腸閉塞と診断されて大腸ステントを入れる時には、母には「ひどい便秘だから手術をする」と説明しました。
緩和ケア病棟の登録に行った際に、その時の外来の医師から病名を伝えた方がいいと言われ、一時期は香西先生からやんわりと伝えてもらおうかと悩んだ時もあったのですが、そうこうしているうちにせん妄が始まり、伝えるタイミングがありませんでした。
母は最期まで病気のことは知らなかったし、おそらくがんだとは全く思っていなかったと思います。でも、母は「こんなに先生やみなさんに手をかけていただいているのに、どんどん悪くなっていくのはどうしてなんだろう」と言っていて、何度も何度も「どうして」と聞かれました。私は「お腹の痛みを取らないとよくならないんだけど、それがすごく難しいみたいだよ」と説明していました。いま振り返っても、私は母にがんだとはとても告げられなかったし、告げなくてよかったと思っています。

キヌさんの闘病中、一番大変だったのはどんなことですか?

一番大変だったのは、香西先生にたどり着く前でした。母は心不全で近所の循環器内科に通院していたのですが、がんと診断される前から便秘で困っていて、何度かその先生に相談したのですが、イマイチこちらの深刻さが伝わっていないように感じました。一番の困り事を相談できるところがないというのはつらかったです。
コロナの治療を終えて退院した後、急にすごくお腹を痛がりだしてどうしていいか分からず、その先生に電話したのですが、「診ないと分からないから、連れてきなさい」といわれて、でもその日は大雨が降っていてとてもそんな状態の母を連れて行けるような状況ではなかったんです。「往診は無理だと思いますが、なんとかいまできる応急処置はないですか?」と聞いたのですが、「受診しないとどうにもできない」と言われてしまいました。救急車を呼んでも知らない病院に連れていかれて、何時間も待たされるかもしれないと思うと、呼べませんでした。結局、母とふたり、ただ痛みがおさまるのをじっと待つしかありませんでした。

一旦痛みは和らいだのですが、また2日後に痛み出して、その日は姉と妹が来てくれていたので、車で病院に連れて行きました。日曜日の救急外来はとても混んでいて、ベッドも空いておらず、痛がる母をソファに寝かせて2時間待ちました。母は「こんなに痛くて、もう待てない。どうしたらいいの?」と泣きながら怒り、なんとか母を宥めて過ごす時間はとても長く感じました。結局、日曜日なので詳しい検査はできず、アセトアミノフェンを処方されただけで診察は終わりました。それが効いて翌日の診察まで落ち着いて過ごせたので良かったのですが、まさかアセトアミノフェンでそんなに痛みが取れるなんて思わず、その薬だったら家にもたくさんあったのに、なんでかかりつけの先生はまずそれを試してみてと言ってくれなかったんだろうと思ってしまいました。

せん妄の時も大変でしたね。ひどいせん妄だったのは2回だけでしたが、2回とも母は丸1日ほとんど眠らずに暴れ続けて、どこにそのエネルギーがあるんだろうと思いました。訳のわからないことを言っていて、妹はすごく叩かれていました。従姉妹が見舞いにきた時だけはピシッと元の母に戻り、帰ったらまた目が据わって変なことを言い出しました。一度それを経験してからは、またせん妄が起きるのではないかと、ヒヤヒヤする日々でした。
せん妄が起きていなくても、母は体調が悪くて気持ちに余裕がなく、少しでも意にそぐわないことがあると、すぐにカッとなってしまいました。医療用麻薬の点滴をしている最中でも母はベッドからリビングに移動したがったのですが、動くときに点滴が引っ張られて抜けたり、気づかないうちに機械のボタンを押して設定が変わってしまったりしたらどうしようと思うと、私ひとりのときには母を動かせませんでした。ベッドにいてと伝えると母は気分を害し、そのストレスがせん妄のトリガーになっていたのかなと今となっては思います。

医療用麻薬の点滴や、在宅酸素など、色々な医療機器が家に導入されていく中で、新しい物や薬に私たちが慣れるのにすごく時間がかかりました。

看護師と女性

在宅介護と看取りを選んだのはどうしてですか?

母は直近2年間で3回入院したのですが、入院中の様子を見てやっぱり家の方が母をちゃんと看病してあげられると思ったからです。母は100歳を超えてから携帯電話の操作がだんだん難しくなり、自分で電話をかけることも、かかって来た電話を受けることもなかなかできない状態になっていました。しかも、当時はコロナ禍だったから、面会制限もあり、母が入院中にどんなふうに過ごしているのかとても心配でした。
短い面会時間に母を訪ねると、病院の人手不足をすごく感じました。ひとりでは椅子からベッドに戻ることができない母が椅子に座らされたまま疲弊している様子や、シーツに便が付着したままなのを目の当たりにして、それもしょうがないことなんでしょうが、そのままにはしてはおけないと思いました。看護師さんはひとりひとり話してみるとみんないいひとなんです。だけど、忙しすぎて患者に気を配る優しさを失っているように見えました。

キヌさんの介護をしていた時どんなお気持ちでしたか?

介護は分からないことだらけ、できないことだらけで、いつも一杯一杯でした。母がどうして欲しいのかも分からなくて、やらなくてはいけないことに追われつつも、分からなくて立ち止まってしまうことも多々ありました。
母のあの小さな体を支えてトイレに連れていくのもすごく大変でした。オムツ交換ですら満足にはしてあげられませんでした。テープ式のオムツは母が寝返りを打つとすぐにずれてしまうし、あんなに軽かったのに母のお尻を持ち上げるのも一苦労でした。同居している私は、姉や妹が来てくれている時でも、母の様子が気になってしまってそばを離れられず、がんとわかってからの3ヶ月間、全く自分の時間はありませんでした。
姉は、家庭と介護の両立が大変だったと思うし、姉の家からうちまで片道1時間半かかるから、通うのも相当堪えたと思います。妹は、仕事をしていたから、仕事と家庭と介護をするのもまた違った苦労があったでしょう。そんな中でそれぞれに精一杯やってくれているというのがわかっていたから、介護をしている間、喧嘩をすることはありませんでした。電話やSNSのグループチャットで毎日連絡を取り合っていました。
その真っ只中にいるときは、いつまでそれが続くか分からないし、日々変わる母の状態に気持ちもついていかなくて、1日1日踏み締めるように進んでいましたが、いま思うとあっという間の3ヶ月でした。病院で余命3ヶ月と言われましたが、その通りになってしまいました。

医師

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月

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