MENU

体験談 2025.10.07

体験談vol.23 樺澤キヌさんの次女さん①

体験談vol.23 樺澤キヌさんの次女さん①

・患者さんの病名:大腸がん
・患者さんの年齢:103歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで3ヶ月
・訪問診療を受けた期間:約2ヶ月半
・家族構成:次女さんと2人暮らし、隣県に長女さん家族、近隣に三女さん家族在住
・インタビューに答えてくださる方:次女さん(70歳)
・インタビューの時期:逝去から1年4ヶ月後

メガネをかけた女性

樺澤キヌさんは100歳を超えてからも食欲が衰えず、元気に過ごされていました。加齢のため難聴や変形性膝関節症、慢性心不全などの疾患を患っていたものの、トイレに行ったり、家の中を移動したりすることはひとりでできていました。

103歳になったばかりの8月にコロナに罹患し、入院治療を受けた際に施行したCTで偶然、大腸がんが見つかりましたが、がんによる症状はなかったため経過観察となりました。しかし、退院2日後の9月7日から腹痛と便秘を自覚し、病院で検査を受けたところ、がんが急速に増大して腸閉塞を発症していることがわかり、入院して大腸ステントを留置されました。キヌさんにショックを与えたくないとご家族はおっしゃり、本人には病名は告知しないことになりました。通院の移動や待ち時間がかなりの負担になっていたため、9月26日より当院からの訪問診療を開始しました。

初診の時点で、左腹部に痛みと違和感があり、コロナ罹患後から食欲はかなり落ちて1ヶ月で4kgも体重が減ってしまっており、2度の入院で睡眠のサイクルが乱れてしまったのか、眠りが浅く、それも衰弱の進行に拍車をかけていました。トイレまで歩行できる時もありましたが、息切れやふらつきで歩けなくてオムツが必要な時もありました。そのほか、薬を飲むことがストレスになっていて、これまで循環器内科などから9種類の薬剤が出ていましたが、少しずつ減らしていくことを希望されました。

腹痛に対してアセトアミノフェンという鎮痛剤を頓用で開始し、腸閉塞の再発を防ぐために下剤を調整して排便を促しました。また、日に日に労作時の息切れが強くなったため、10月1日に在宅酸素療法を開始しました。ご家族は薬を使うことに不安があり、キヌさんが我慢できるギリギリまでアセトアミノフェンの使用を控えていましたが、10月に入ってだんだん腹痛が強くなり、アセトアミノフェンを数回使っても痛みが取れなくなってきました。10月14日から医療用麻薬を開始したところ、腹痛は落ち着きましたが、副作用でせん妄や嘔気が出てしまいました。さらに、10月20日から腸閉塞を再発して繰り返し吐くようになり、内服薬が飲めなくなって、医療用麻薬と抗せん妄薬の持続皮下注射を開始しました。数日で嘔吐は治ったため注射を中止し、内服薬に切り替えましたが、腹痛やせん妄は強まったり、落ち着いたりを繰り返しながら、だんだん悪化していきました。10月31日からは暗赤色の血便が見られ、大腸がんからの出血が疑われました。11月2日にはキヌさんははっきりと「痛みをとってほしい。延命はしてほしくない。こんな状態でずっといるのは嫌だ」とおっしゃいました。その後は、次女さんも痛みが始まったら早めにお薬を与えようと、考え方を改めてくれました。11月9日から息苦しさが強くなり、原因として肺転移や胸水貯留、貧血が考えられました。病状の進行に伴い、ひどいせん妄や昼夜逆転も見られるようになりました。11月下旬から再び内服が困難となり、11月26日から息苦しさやせん妄を抑えるための注射剤を再開しました。日々状態が変わるため、そばで見ているご家族、特に同居されている次女さんは、キヌさんの一挙手一投足に一喜一憂してしまい、ずっと張り詰めていて、介護の疲れが限界に達していました。

11月30日に同居中の次女さんをはじめ、長女さんや三女さん、その伴侶、訪問看護師や薬剤師、主治医の香西が集まり、今後どう過ごして行くかを話し合いました。キヌさんは傾眠になっていて、自分の意見が言える状態ではなかったので、キヌさんはどうしたいのだろうと、キヌさんの気持ちをみんなで考えました。これまでの経過を振り返り、3日前からほとんど寝たきりで余命は数日〜長くて2週間程度であること、これから起こり得る変化についてご説明しました。
次女さんは、不安がとても大きく、「亡くなる時は医師や看護師がずっとそばについていてくれるのだと思っていた。私ひとりの時に何かあったら・・・」と泣いていました。現代では病院でも在宅でも、よほどの急変や、蘇生希望があり救命処置を行なっているような状況以外では、病気の患者さんが亡くなる瞬間を医療者がそばで見守っていることはほとんどありません。年間に亡くなる方の人数を考えると医療者の人員的にそうするのは難しいというのが実際のところです。
この話し合いの場では、次女さんの精神的な負担を軽減する方法として、緩和ケア病棟への入院や、医療保険の適応外で費用は自己負担にはなりますが、看護師に24時間自宅待機してもらうこともできることをお伝えしました。次女さんは考え込んでいましたが、長女さんや三女さんが「ここまで頑張って来たんだから。後悔しないためにも、家で看取りたい。家での看取りの経験がないから私たちも不安だけど、姉妹3人いるんだから一緒にやっていこう」と声かけされ、家で過ごしていくことが決まりました。
キヌさんは家で過ごせることにほっとしたのか、それからの日々は穏やかに眠って過ごされ、12月4日にご家族に見守られながら旅立たれました。

キヌさんのご逝去から1年4か月後の春の気配を感じさせる日に、次女さんに在宅介護の経験と、いまの思いについて語っていただきました。

最近はどんなふうに過ごされていますか?

この1年の間にコロナやインフルエンザ、胃腸炎に数ヶ月おきにかかり、体調を崩していることが多かったです。母が亡くなってから、事務手続きや家の建て替えの打ち合わせや引っ越しで、ずっとバタバタしていたので、疲れが溜まっていたのかもしれません。年末年始にインフルエンザに罹った時は、どこの病院も開いていなくて、香西先生に連絡しようかと思いました。

いまは母と住んでいた家を建て替えているところで、姉の家に仮住まいさせてもらっています。母と暮らしていた家は築60年で、2階の床は歩くたびにギシギシ鳴っていたし、冬にはネズミが出ました。母がせん妄の時は、屋根裏でネズミも騒いでいたので怖かったんですよ。私も今年で70歳なので、余生をゆっくり過ごせる場所が欲しいなと思って、ひとりになったタイミングで建て替えを決意しました。

対談風景

キヌさんはどんなお母さんでしたか?樺澤家はどんな家でしたか?

母は、自分のことは差し置いて、家族のことや子どものことしか考えていないようなひとでした。でも、怒ると怖かったです。私たちが言うことを聞かないから、母にはしょっちゅう怒られていましたね。母は私たちを大事に育ててくれて、苦労する姿も見てきたので、最後はちゃんと恩返ししてあげたいなと思いました。

普通のサラリーマン家庭だから、娘が3人もいて家計が大変だったのでしょう。専業主婦がほとんどで、女性が外で働くのは難しい時代でしたが、母は親戚が営む靴下工場に日中働きに出てくれていました。私の姉は小学生まで股関節が悪くて、入退院を繰り返していたので、母はよく病院と家を行き来していました。
父は消防士だったので、宿直があり、台風が来た時などは休みの日でも出動になって、肝心な時には家にいませんでした。その分、母が気丈に振る舞っていました。父は平素でも週の半分はいなくて、宿直明けの日は仕事から帰ってきて眠っているので、私たちがにぎやかに遊んでいると叱られました。でもあまり威張り散らすようなひとではなかったです。なんせ女4人と男1人でしたから肩身が狭かったのかもしれません。お酒が好きなひとで、ある程度私たちが大きくなってからは、友達が家に来て父を交えて連れてお酒を楽しむような時もありました。父はいつの頃か消防士を辞めて、外資系銀行に再就職しました。ABCもわからないひとでしたが小学生が使うノートを使って一生懸命に英語の勉強をしていました。10年くらいはその銀行に勤めていましたね。バブルの頃でパーティなんかにも楽しんで行っていましたよ。

私たち3姉妹は、姉が私の4つ上、妹は私の1つ下です。姉は頼りになる存在で、妹は年子だから変なライバル意識が常にありました。ふたりとも20代で嫁いで、私だけがずっと両親と暮らしていました。母の介護の時には姉と妹がいてくれて、本当に良かったなと思います。不安で精神的に参っていた時に、ふたりの存在は大きかったです。私がひとりっ子だったら、母と共倒れになっていたかもしれません。

母は山形の出身で、玉蒟蒻や芋煮が好きでした。腸閉塞の時に玉蒟蒻を食べさせてしまって、香西先生に叱られたのを覚えています。母は寿司や魚も好きで、大腸の病気だから生モノは良くないだろうと思いつつも、本人が食べたいというので少し食べさせていました。

医師と話すメガネの女性

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月

トップ/スペシャルコンテンツ/体験談/体験談vol.23 樺澤キヌさんの次女さん①