体験談 2025.08.07
体験談vol.20 島居梨枝子さんのお母さん<前編>

・患者さんの病名:乳がん
・患者さんの年齢:45歳(享年)
・闘病期間:発症から逝去まで約5年
・訪問診療を受けた期間:約2ヶ月
・家族構成:両親と3人暮らし、兄家族が都内在住
・インタビューに答えてくださる方:お母さん
・インタビューの時期:逝去から約1年後
・インタビューの同席者
たーとす薬局 長谷川さん(薬剤師)
公式サイト:https://cmed.co.jp/tatosu/
池袋本町訪問看護ステーション 村島さん(看護師)
島居梨枝子さんはフリーのカメラマンで、カメラのオンライン講座も行っていました。フットワークが軽く、誰とでもすぐに打ち解けられる梨枝子さんは、ひととのつながりをとても大切にしていて、ご縁で得た仕事にいつも懸命に取り組んでいました。25歳の時に甲状腺がんに罹患し、甲状腺摘出術を受けました。術後にがんの残存が疑われましたが、梨枝子さんはそれ以上の手術を希望せず、しばらく外来で経過観察されたのち、通院が途絶えてしまっていました。
40歳の時に右乳房にしこりがあることに気づきましたが、コロナ禍で病院受診がなかなかできませんでした。2年後に発熱で病院を受診した際に、CTで右乳房に異常を指摘され、精査の結果、右乳がんstageⅣと診断されました。乳房以外に腰椎などへの転移がありました。がん薬物療法1を開始し、1年後の43歳の時に主治医の休職に伴い、大学病院を紹介されました。6次治療2までがん薬物療法を継続しつつ、その途中、44歳の時に胸筋温存乳房切除術を受けました。また、腰椎転移や胸壁転移、大腰筋や仙骨に対して放射線治療も合計37回受けました。
手術から約7ヶ月後、44歳の10月にその頃に使用していた免疫チェックポイント阻害剤の副作用で肺炎をきたし、約1ヶ月入院しました。入院中の画像検査で背中の筋肉の中に新しい影を認め、感染か転移が疑われていましたが、精査の結果、転移と判断されました。一度退院しましたが、2週間後の12月13日に発熱して再入院し、画像検査では先日見つかった背中の筋肉の中の腫瘍が脊柱管内にまで進展していることがわかりました。また、入院してすぐに物が二重に見えたり、言葉がうまく出て来なかったりする神経症状が出現し、頭部MRIで髄膜播種と診断されました。髄膜播種はあまり有効な治療法がなく、積極的ながん治療はかえって予後を短縮させる可能性が高いと主治医から家族に説明があり、年明けの1月15日に退院となりました。
退院当日より当院からの訪問診療を開始しました。入院中から週単位で両下肢麻痺の進行があり、1月4日頃までは車椅子でトイレに行けたそうですが、退院時点ではベッドから立ち上がるのも難しい状態でした。両下肢の感覚も鈍くなり、足を動かせないので浮腫も出ていました。転移のある腰部に痛み、右下肢に痛みと痺れがあり、医療用麻薬の持続皮下注射を入院中から開始していました。また、38℃の熱が出たり落ち着いたりを繰り返していました。意識はぼーっとしていて、会話はできるけれど、相手の言っていることを理解するのに時間がかかり、返答しようと考えている間に疲れて眠ってしまうこともある状態でした。退院時の移動でSpO2(酸素飽和度)が88%に低下したため、在宅酸素療法を導入しましたが、その後は2月下旬までは酸素を使用しなくてもSpO2 95〜98%で安定し、本人が息苦しさを感じた時にだけ一時的に使用してもらうようにしました。
1月19日ごろから下肢痛が増悪し、神経障害性疼痛治療薬や医療用麻薬を増量して対応しました。また、どうしてもオムツでの排尿に抵抗があり、オムツ交換の際の体位交換も梨枝子さんにとって負担になっていたことから、1月22日に膀胱留置カテーテルを挿入し、以降は排泄のストレスを軽減できました。1月29日より髄膜播種による嘔気が強まり、色々な種類の制吐剤を試し、数日後に落ち着きました。2月5日ごろから背部や足趾の痒みが出現しましたが、外用薬を塗布したり、看護師の介助を受けながら自分の足を掻いたりしたところ、和らぎました。2月16日頃から呼吸困難と腰背部痛が増悪し、医療用麻薬を漸増しましたが、寛解と増悪を繰り返し、医療用麻薬のみでは苦痛の緩和が難しいと判断し、3月5日から少量の鎮静剤を開始しました。梨枝子さんは「起きているとつらい。ずっと眠っていたいとも思うけど、このまま起きなかったらどうしようとも思う」とおっしゃり、不安感から自分で医療用麻薬や鎮静剤の追加投与のボタンを押す頻度が増えました。梨枝子さんの思いを聞きつつ、うとうとしていて呼びかけたらお話ができるくらいの眠りになるよう薬剤を調節しました。
お母さんは、在宅看取りを覚悟され、梨枝子さんができないことが増えて行く中でも、できたこと、よかったことに目を向けて、気丈に笑顔で振る舞われていました。お父さんは、梨枝子さんにどう接してよいか分からなくて、梨枝子さんの部屋に入ることができず、トイレに行くふりをして廊下から梨枝子さんの様子を見ていました。3月8日にお父さんは梨枝子さんのためにカレーを仕込み、梨枝子さんはカレーを2口食べることができました。3月10日朝から昏睡状態となり、静かに永眠されました。45歳という若さで、身体的苦痛も強く、特に精神的苦痛は想像もできないほどですが、最期の約2ヶ月の間も梨枝子さんはがんばって、懸命に生きようとされていました。
梨枝子さんのご逝去から約 1年後の春の兆しを感じさせる3月のある日に、お母さんに梨枝子さんへの思いや闘病中のことについて教えていただきました。
1がん薬物療法とは、薬を使ったがんの治療のことで、化学療法、ホルモン療法、分子標的療法、免疫療法などすべてのことを指します。
2がんに対する治療薬は一般的に、ガイドラインに沿って、そのがんに対してより効果が高い薬から使っていきます。最初に行う薬物療法を1次治療(ファーストライン)と呼び、効果がなかったり、副作用が出たりすると、体調を見ながら2次治療、3次治療と進めていきます。
この1年はどんなふうに過ごされていましたか?
まだ全然心の傷が癒えておらず、毎日泣いて過ごしています。夫に泣いているところは見せないよう、自室で泣くこともあります。梨枝子の部屋を片付ける気にはなれなくて、梨枝子の眠っていたベッドもそのままにしています。梨枝子のことを思い出さない日はありません。最愛の娘です。
梨枝子の仕事の事務所や関係各所との契約はそのままになっていました。梨枝子はいつか復帰しようと思っていたのだと思います。梨枝子の友人にも手伝ってもらいながら、何ヶ月もかけて解約しました。梨枝子の撮った写真を見たかったのですが、パソコンは何重にもロックがかけられていて、業者に依頼しても開くことができませんでした。梨枝子のSNSアカウントを削除したら、私の携帯でも梨枝子とのチャットや梨枝子から送られてきた写真が見られなくなってしまい、ショックでした。ここ数年は撮った写真はデータでしか保存していない物も多かったから、デジタル化も良い面ばかりではないですね。
梨枝子はすごい枚数の写真を撮っていたのに、自分の写真はあまり撮らないから、遺影で使う写真がなかなか見つからず、危うく運転免許証の写真になるところでした。なんとかピンクのカーディガンを着ている写真を見つけてそれにしましたが、もっとおしゃれな服を着ているやつにしてあげられたらよかったかなと思っています。
梨枝子は占いが好きで、以前占ってもらった時に「島居家はお母さんで回っていると言われたよ」と言っていましたが、私は梨枝子が家族の中心だったのだと思います。梨枝子がいなくなって、私も夫も心の拠り所を失った気持ちです。
最近は、家にこもってばかりではよくないと思い、雨の日以外には夫婦ふたりで散歩をしています。夫は膝が悪くてあまり遠くには行けないのですが、30分くらいは歩くようにしています。私は週2日ヨガやピラティスにも通っています。80〜90代の方もいる教室で、ゆったり体を動かしています。健康のためにも、気持ちを整えるためにも、体を動かすことは大事だなと感じます。
梨枝子さんはどんな方でしたか?
小さい頃は人見知りで、大人が嫌いでした。中学生の頃は芸能関係に憧れていて、芸能事務所に入りたいと言っていたのですが、夫が反対しました。いま思うと、好きにさせてあげたらよかったなと思います。中学生の時はバレーをやっていて、高校の途中でバレー部を辞めてからはアルバイトを色々やっていました。
夫も私も梨枝子の兄もAB型で、梨枝子だけがB型なんです。それで、梨枝子が小さい頃、家族ぐるみでかかりつけだった診療所の先生が冗談半分に「あんたが一番まともなんだからね、しっかりしなよ」と言っていました。血液型がどこまで関係あるかわかりませんが、梨枝子が家族の中で一番しっかりしていたところはありましたね。23歳で独立してフリーのカメラマンになって、スタジオを構えていたくらいですから。
梨枝子は気の強い、意志の強い、まっすぐな子だと思います。闘病中、いろんな思いがあったと思うのですが、自分のことは全部自分で決めてきて、私はあまり相談されたり、感情をぶつけられたりすることはありませんでした。
友達はたくさんいましたが、がんのことを本人から直接伝えたのは2人だけでした。化学療法で髪が抜けたり、痩せたりしちゃったから、そういう姿を見られたくなかったのか、自分からいろんなつながりから徐々にフェードアウトしていっていたみたいです。医療用麻薬を使うようになって副作用でぼーっとするのが自分でわかっていたから、徐々に仕事は減らしていました。それでも、オンラインのカメラ講座は亡くなる半年くらい前まで頑張って続けていました。
知らせていなかった梨枝子の友達に喪中ハガキを送ったら、たくさんの方がご連絡くださって、形見の品が欲しいとか、お線香をあげたいから家に行っていいかと言ってくださいました。梨枝子の服とか写真とか、好きなものを持っていっていただきました。お墓参りに行きたいからお墓の場所を教えて欲しいと言ってくれた方は、お墓参りの時の写真を送ってくださいました。本当にたくさんの方に愛された娘だったのだなと思います。
私と梨枝子は、仲の良い親子だったと思います。反抗期はなくて、ずっと仲良しですね。7年間くらい家を出て一人暮らしをしていたこともありましたが、梨枝子が39歳くらいの時、スタジオを閉めるタイミングで「行くところがないなら、家に帰ってきたら」と言い、それからはまた一緒に暮らしていました。梨枝子とは服を共有していて、いまも娘の服を私が着ています。お互い気を遣わずに話せる分、喧嘩も多かったですが、いまは喧嘩もできなくなって寂しいです。
編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2025年某月