体験談 2026.02.05
体験談vol.33 髙橋玲子さんと家田奈津子さん

・患者さんの病名:重度大動脈弁狭窄症、心不全、心嚢水貯留
・患者さんの年齢:93歳
・訪問診療を受けている期間:9ヶ月
・家族構成:友人の家田さんと2人暮らし
・インタビューに答えてくださる方:髙橋玲子さん(患者さん本人)と家田奈津子さん
・インタビューの時期:訪問診療開始から9ヶ月後

髙橋玲子さんは、家田奈津子さんと30代の時に職場で知り合い、意気投合して二人三脚で生きてきました。北海道や東京で商店や喫茶店を経営し、老後は喫茶店を居宅に改装してふたり暮らしを続けています。
玲子さんは持病もなく元気に過ごされていましたが、90歳の時に急性心不全を発症し、同時に重度の大動脈弁狭窄症も見つかりました。大動脈弁狭窄症とは、心臓と大動脈の間にある弁の開口径が狭くなり、心臓から血液を駆出するのに余計に力が必要で、心不全を起こしやすい病気です。根治には手術しかありませんが、玲子さんは高齢であることから手術を希望しませんでした。また、同時に心嚢水貯留も指摘され、利尿剤を内服して様子を見ていくことになりました。
心不全発症から2年3ヶ月後、93歳になる年の4月に突然意識消失し、病院に搬送されました。心嚢水が多量に貯留しており、心タンポナーデ1と診断されました。NPPV(非侵襲的陽圧換気療法)と強心薬を開始し、針を刺して心嚢水を1300ml抜きました。3週間後に退院となりましたが、今後も心嚢水が再貯留する可能性が高く、緩和ケアと緊急時対応が必要な状態であることから、退院当日の4月23日より当院からの訪問診療を開始しました。
当院からの訪問診療開始後、体重や浮腫の程度を指標にしながら利尿剤の調整を行いましたが、6月中旬に病院を定期受診した際に心嚢水が再貯留していることを指摘され、緊急入院となりました。当初は数日で退院を予定していましたが、心嚢水を抜いた後で失神したり、原因不明の感染症を起こしたりして 10日間程度の入院になりました。玲子さんは入院生活がストレスで、今後は心嚢水が溜まっても入院したくないとおっしゃいました。
その後は帯状疱疹にかかったり、家田さんが転倒して腰を打ってしまったりしましたが、なんとかお家での生活を続けています。6月から現在までの約7ヶ月間の間に体重が少しずつ増えていますが、それは胸水や心嚢水が少しずつ増えていることを示唆しています。利尿剤を調整して足の浮腫は良くなるものの、体重はなかなか減りません。心嚢水が溜まってくると、通常は息切れや胸苦しさなどの症状が出るのですが、玲子さんは幸い、全く自覚症状がなく、元気に過ごしています。毎日看護師が訪問し、体力維持のための軽い体操や、下肢のマッサージを行っています。
寒さの中にも春の気配を感じる1月のある日に、不治の病と共に生きる玲子さんと、玲子さんを懸命に支える家田さんに、人生についてインタビューさせていただきました。
1心臓を包む2枚の膜の間には普段から潤滑剤として10〜50ml程度の心嚢液が貯留しているが、心嚢水の量が急速に増えて心臓が圧迫され、拡張できなくなる病態を心タンポナーデと言う。脳を含む全身に血液を送り出せないことで、失神や突然死をきたす恐れがある、緊急性の高い状態。
目次
おふたりの出会いについて教えてください。
家田さん:出会ったのは確か、玲子さんが34歳、私が32歳の時です。ふたりとも電話局に勤めていて、玲子さんは根室、私は横浜の局にいたのですが、この人が横浜に転勤になったのがきっかけで出会いました。
私たちが子どもの頃って、北海道はいまで言う海外みたいなイメージだったんです。だから私は「北海道いいな、北海道に住みたいな」とずっと思っていました。そんなときにこの人が北海道から来たものだから、気になって私から話しかけたんです。初めはこの人の北海道弁が気になって、友達とふたりで標準語に直してやろうと思っていたのですが、逆に北海道弁が移っちゃいました。私、この人と同じ歳の姉がいるんですけど、姉よりも仲がいいくらいで家族ぐるみの付き合いになり、電話局では宿直があったのですが、私が宿直で不在の時でも玲子さんがうちの実家に泊まっていることもありました。玲子さんはうちの姪っ子、甥っ子のことも可愛がってくれたので、「おばちゃん、おばちゃん」ってすごく懐いていました。いつからか一緒に店をやろうという話になり、旅行しながら移住先を探して、玲子さんが37歳、私が35歳の時に電話局を退職して、一緒に札幌に行きました。

札幌での生活について教えてください。
家田さん:札幌に住んでいた玲子さんの友人にお世話になりながら、商店の開業の準備をしていました。でも、私は札幌に行ってすぐに虫垂炎になってしまいました。手術を受けたのですが、疲労が溜まっていたのか、傷が開いてしまって1年も塞がらなかったんです。その時は何かと玲子さんに助けていただきました。お店が始まるまでは、資金調達のために玲子さんが電話局にバイトに行ってくれたこともありましたね。
虫垂炎になっても、実家に帰ろうとは全然思わなかったですね。母は心配していましたけど、言っても聞かない娘だとはわかっていたと思います。そういえば、会社を辞めて店をやることにも双方の両親には反対されませんでした。というか、相談せずに決めていましたけど(笑)ただ、私が北海道へ行くと行ったときには、母は嘆きました。嫌な言い方だけど、親を捨てて友達を選ぶのかと言われました。母は羽田空港にも見送りに来てくれませんでした。でも、いざ行ってしまえば、せっせと荷物や食べ物を送ってくれましたけどね。結果的に母や親族よりも、玲子さんという友人を選んだことになるんでしょうかね。
札幌に土地を見つけて、ふたりの退職金で土地を一括購入しました。30代の女ふたりが大金を出すから、地主さんにはびっくりされましたよ。でも、退職しちゃって収入がないから、ローンなんて組めなくて一括で買うしかなかったんです。退職金を全部使って上手くいかなかったらどうしようとか、そんなことは全然考えもしませんでした。それから、設計士は依頼せず、自分たちでお店の設計図を考えて、玲子さんが清書して役所に出したら、それがそのまま通ったんです。この人はなんでもできちゃうんですよね。玲子さんのお父さんが大工さんだったので、お父さんの手を借りて、お店が建ちました。文房具とプラモデルのお店です。
香西:なんで文房具とプラモデルのお店にしようと思ったんですか?
家田さん:この人がそういうのが好きなの。よく自分でもプラモデルを作っていました。店にはミニカーとかも置いていました。
玲子さん:でも、近所の人が食料品を買いに来るんです。
家田さん:そう。「卵ください、お茶ください」って言われるから、最初はパンから始めて、あれもこれもっていううちに品揃えが増えていって、しまいには果物や冷凍も置きました。それはそれで、楽しかったんです。近所の方が喜んでくださるからね。
本当は札幌で60歳くらいまでお店をやって、その後に伊豆の方に行こうなんて話していたんです。でも、練馬に住んでいた玲子さんの末の妹さんが、30代で胃がんになってしまい、玲子さんは妹さんが心配でいてもたってもいられず、移住6年目の時にお店を閉めて上京することにしました。玲子さんにとっては、10歳年下で自分が母代わりになって育てた妹さんだから、母親のような気持ちだったんです。妹さんを33歳で見送った後、1年くらいして横浜で喫茶店を開きました。

玲子さんが大事に思っていた妹さんのことについて教えてください。
家田さん:玲子さんのお父さんは秋田に仕事で行った際にお母さんを見初めて、根室に連れ帰りました。でも、4人の子育て中に戦争で徴兵されてしまい、お母さんは義親族をあまり頼れず、知らない土地で困り果ててしまったようです。子どもを連れて釧路に疎開していたのですが、その間に援助してくれた男性と一緒になりました。お父さんが戦争から帰ってきて、怒って「俺の子だ」と子ども4人だけ母親の元から連れ去ってしまって、それからは当時13歳で長子だった玲子さんが妹、弟たちの面倒を見ていたそうです。末の妹さんは洲子という名前で、この人はいつも「しまちゃん、しまちゃん」と言っていたね。亡くなってから10年くらいは、妹さんの話をするたびに泣いていたね。
玲子さん:いつも一緒にいたからね。
家田さん:しまちゃんは一番末っ子なのにすごくしっかりしていて、上のお姉ちゃんたちがみんな頼りにしていたの。しまちゃんが一喝したらみんなが「はい!」って言うことを聞いていたんですよ。あんなにいい子が若くして亡くなったのは不憫でした。いまの医療技術や薬があれば進行を止められたのかもしれませんが、当時は手立てがありませんでした。
玲子さん:人生で後悔しているのは、しまちゃんのことだけだね。ずっと心残り。

横浜と東京でやっていたお店のことについて教えてください。
家田さん:私は横浜出身で、玲子さんも電話局時代に横浜に勤めていて馴染みがあったので、次のお店は横浜で開きました。二階建ての民宿の1階を借りて喫茶店を始めたのですが、人通りの少ないところだったせいか、あまりお客さんが入らなかったんです。それで4年くらいでそこを閉めて、その後いま住んでいる東京の物件に移転しました。ここは玲子さんのきょうだいの所有物件で、「不動産を管理するようなかたちで住んでくれたらいい」と言ってくださり、喫茶店をやっていた場所を居抜きで貸してもらいました。札幌で6年、横浜で4年、その後東京で50代から70代まで20年やりました。ここは近くに旅行会社の研修施設があったので、会社員の方がよく休憩に来てくれていました。
私たちは商売気はそんなになくて、儲けるよりも楽しみたいっていう気持ちが大きかったんです。だから、確定申告に行ったときに税務署の方に「もう少し儲けましょう」なんて言われたこともありましたよ。原価に近い金額で、お客さんが入っても儲け分が少なかったのだと思います。でも、皆さんが喜んできてくださるなら、それでいいねって言っていました。そのせいで、老後資金はなくて、人様には迷惑をかけまいと思っていたのに、結果的にはいろんな方のお世話になっています。でも、おかげさまで毎日元気に過ごせています。

お互いのことをどんな性格だと思いますか?60年も一緒にいて喧嘩したことはありませんでしたか?
家田さん:私たちはすごく対極的で、私が動なら、この人は静です。全然違うんです。だから合ったのかなぁ。私は男のひとみたいにお転婆で欲張りで、あれこれやりたくてしょうがない人間です。玲子さんは頭が良くて、黙々とやるタイプで、器用でなんでもできます。下手なのはお金儲けだけ。私はこの人のようにやろうと思ってもできません。だから、意見の食い違いはたくさんありましたけど、喧嘩はありませんでした。
玲子さん:喧嘩はないね。共通するものもあったんじゃないかと思います。
香西:違いがあるからこそ補い合えたり、芯の部分では合うところがあるんですね。そうじゃないと、こんなに長く一緒にいられないですよね。
家田さん:そうですね。この人は私のことを家族だと思ってくれてるから、嬉しいです。
香西:生まれ変わっても出会いたいですか?
家田さん:そういう友達でいれたらいいですね。わからないけどね。私はもともとはこんなにおしゃべりじゃなかったはずなんだけど、この人が無口だからかしら。いつの間にかこんなにおしゃべりになっちゃいました。この人は必要な時はちゃんと話すけれど、おしゃべりはしないほうですね。ここで寝ていても時々「ええん」とか「ほう」って言うから「何?」って聞くと、「なんでもない。咳払いしただけ」とか言うんですよ。でも、こんなに一緒にいると、咳払いひとつでも「あらいつもと違うわ」とか、大抵のことは言葉にしなくてもわかってしまうんですよね。

病とともに生きることと、大切にしたいこと
香西:玲子さんが病気になったとき、家田さんはどう感じましたか?
家田さん:玲子さんは90歳まで何にも病気になったことがなかったので、突然でとても驚きました。
玲子さん:そうだね。そのおかげで、病人みることになっちゃって悪いね。
家田さん:悪いねはいいの、いらないの。仕方ないことだし、みんな加齢になると何かしら出てくるんだから。前に一生懸命やっていただいたから、いまお返ししてるって言ってるじゃない。私に対して申し訳ないっていう気持ちがあるから、何か手伝おうとしてくれるんですけど、やってもらった後に苦しくなっちゃったらと不安になるので、無理しないでじっとしていてって言っています。
香西:おふたりにとって生きることとはどういうことですか?
玲子さん:いいお友達ができてよかったとは思っていますよ。
家田さん:生まれたら、一生懸命生きるしかないですね。色々なことに感謝しながら。おかげさまって思いますね。周りのいろんな人の支えもあって、不幸中の幸いというのをたくさんいただいています。
香西:これからもし病状が悪化しても、玲子さんはここで家田さんと過ごしていきたいんですよね?
玲子さん:そう。(家田さんの顔を見て)申し訳ありません。
家田さん:大丈夫よ。先生も見えてくださるし、看護師さんも毎日見えてくださるし。
香西:おふたりで過ごしていくっていうことが、玲子さんにとって一番大事なことなんですよね?
玲子さん:そうですね。
家田さん:おかげさまでね、ありがたいです。まだしばらくお世話になります。
香西:訪問診療はおふたりの役に立ってますか?
家田さん:もちろん!ありがたいよね。初めは毎日どなたかが見えるから戸惑いましたが、慣れてきました。病院に行かなくて済むから楽みたいです。
香西:今後も何かあっても一緒に乗り越えていきましょうね。
家田さん:ありがとうございます。100まで頑張ります。
香西:頑張りましょう。一緒にやっていきましょう。他に何かこれは伝えておきたいっていうことはありますか?私たちに向けてでも、玲子さんに向けてでも。
家田さん:ありがとうって思ってなんかやりたいのわかるけど、やらないでね。自分の体を大事にしてね。お願いします。
玲子さん:はい。

編集:児玉紘一
執筆・文責:むすび在宅クリニック院長 香西友佳
対談日:2026年某月